一口飲んだ水さえが、火となって胸の中で燃えるかと思われる時に、短笛の音は、一味の涼風となって胸に透《とお》るのです。
 この真夜中に、隣の部屋で尺八を吹き出したものがあります。竜之助の持っている風流といえばおそらく、尺八がその唯一のものでありましょう。それは父の弾正が好んで吹いたものであります。それを学んだ竜之助は幼少の時から、それだけは心得ておりました。伊勢から東海道を下る時に、たしか浜松までは、その一管の尺八に余音《よいん》をこめて旅をして来たはずです。浜松へ来て、お絹に逢ってから尺八を捨てました。少しく光明を得ていた眼が、再び無明《むみょう》の闇路《やみじ》に帰ったのも、その時からでありました。
 父から尺八を教えられる時に、竜之助はよく、尺八のいわれを聞かされたことであります。臨済《りんざい》と普化禅師《ふけぜんじ》との挨拶の如きは、父が好んで人に語りもし、竜之助にも聞かせました。竜之助には、そのことがわかったような、わからぬような心持がしていました。父が、よくすべてを禅味に持って行くことを竜之助は、むしろ反感を懐《いだ》いていました。普化禅師の物語を聞かされた時も、冷淡に
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