「いいえ、嘘なんぞは申しません、あの花魁が御贔屓《ごひいき》の旦那にひかされて、矢の倉の親御さんのところへお帰りになったのは、つい近頃のことでございましたが、お礼参りだといって柳原の、杉の森の稲荷様へ御参詣になった帰りに、やられてしまいました」
「へえ、ずいぶん、怖ろしいことを聞くものですね、まあ、どうしてそんなことになったのでしょう」
「このごろは、江戸の市中へ辻斬ということが流行《はや》って、行当りバッタリに殺《や》られる人が何人あるか知れません。ほんの近いところですけれども、一人で夜歩きをなさったのが、あの方の落度《おちど》でございますね、その帰りにやられてしまったんでございます。それでも、人の噂には、あれは辻斬ではなかろうということでございます、辻斬ならば、スッパリと抜打ちかなにかにやるんでしょうけれど、あの花魁のは抉《えぐ》ってあるんだそうですから、何か遺恨《いこん》があって、つまり恋の恨みだろうと言って、専《もっぱ》らの評判でございますよ」
「いや、いや、そんな話は、もうよしましょう、今時、まだ恋の恨みで人を殺すような男があるのか知ら」
「そりゃ、ありますともさ、いつになっ
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