屋《ともえや》の前へ来ると立ち止まりました。そこで、彼が巴屋の暖簾《のれん》を押分けて入ってしまったきり、出て来ないのは不思議です。
 竜之助の姿が巴屋の暖簾の下で消えると、まもなく、
「大隅《おおすみ》さん、大隅さん」
と誰やらの呼ぶ声が聞えました。
「あいよ」
 二階の一間で返事をしたのは、若い女の声であります。
「按摩さんが参りましたよ」
「あ、そうですか」
 まもなく番新がそこへ連れ込んだのは、按摩さんとは言い条、決して机竜之助ではありません。廓《くるわ》へ出入りするあたりまえの按摩を、番新があたりまえに引張って来たのに過ぎません。まもなく連れ込まれた按摩は、中でハタハタと肩の療治にかかりながら、世間話をはじめているのが、よく聞えます。
「万字楼の白妙《しろたえ》さんは、かわいそうなことを致しました、ほんとにお気の毒でございますよ、まあ、なんて運が悪いことでしょう」
「万字楼の白妙さんが、どうかなすったの」
「花魁《おいらん》はまだあれをお聞きになりませんか。柳原の土手で、あの花魁が殺されてしまいましたよ」
「え、柳原の土手で、あの白妙さんが殺されたって? そりゃ嘘でしょう」

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