して、帰心《きしん》矢の如きものあるべきは、情においても、理においても、当《まさ》にしかるべきところがあるが、今では、もう義理にも人情にも泣こうという涙は涸《か》れて、ただただ血に渇く咽喉《のど》が拡大し、夜な夜な飽くまで人の血を貪り飲むの快味に我を忘れ、我を荒《すさ》ましめているに過ぎなかろう。今時分、里心に駆られて故郷《ふるさと》へ帰ってみたって、そこには何の興味もあるべきはずはない。興味はあるべきはずはないけれども、この際、何とはなしに帰りたくなったものと見れば論はないが、肝腎の早駕籠は甲州の裏表の街道、いずれをも飛んで行く形勢はなくて、意外千万のことには、その夜の大引け前になって、竜之助は杖をついて、吉原の大門内を忍びやかに歩いていました。
お銀様は吉原の廓《くるわ》のうちを探していたけれど、その時分には竜之助はあまり吉原へは立入らなかったようです。
今日この時分にここへ入り込んだ竜之助の姿は、あまり人目にはつきませんでした。茶屋から行こうとするのでもなく、以前神尾に連れられて行った万字楼をさして行こうでもありません。茶屋と妓楼《ぎろう》の軒下を例の通り忍びやかに歩いて、巴
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