緒の切れた下駄を藪《やぶ》の中へ抛《ほう》り込んで、さも口惜《くや》しそうに、「友さん、わたしがここで転んだことを、誰にも言っちゃいけないよ」と念を押しました。その時に米友は、「うむ」と固く承知すると、お角はなお、「言うと承知しないよ」と馬鹿念《ばかねん》を押しました。そこで米友は再び、「うむ」と力を入れて返事をすると、お角は、「けれども、お前はキット言うよ、お前の口から、このことがばれるにきまっているよ、もしそういうことがあった時は、わたしはお前をただは置かない……ただは置かないと言っても、わたしよりお前の方が強いんだから、してみると、わたしはいつかお前の手にかかって殺される時があるんだろう、どうもそう思われてならない」その意味がわからないから米友は、「何、何を言ってるんだ」と眼を円くすると、「転んだところを見た人と見られた人が、もし間違っても男と女であった時は、どっちかその片一方が、片一方の命をとるんですとさ」
お角がこんなことを言って自暴《やけ》のような気味であったことを米友は、もう忘れてしまっているに相違ない。しかし、お角の方では、多分それを思い出しているに相違ない。
ここでめぐり会った米友をおかしいと思うと共に、それと相合傘をしていたお高祖頭巾《こそずきん》の女の人を、お角は不審に思わないわけにはゆきません。ところが、お高祖頭巾の女の方では、さいぜんから、ちゃんと心得たもので、頭巾の中からお角の面を見据えるようにしていましたので、お角もなんだか気味が悪く思いました。
「おや、あなたは……」
今度はたしかにお角の方がギョッとしました。お角に呼び留められた米友は、てんで気を呑まれてしまったが、この覆面の女に見据えられたお角は、物怪《もののけ》につかれたように立ち竦《すく》んだのは稀れに見る光景であります。
米友にとってはお角が苦手であるように、お角にとってはお銀様が苦手であります。米友は、お角から言葉をかけられても頓《とみ》には返事ができません。お角は、お銀様に正面から見据えられて、しどろもどろです。
この三スクミの体《てい》を傍から見ていたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、委細を知らないから、なんとも口出しがならず、川の流れを横目に見ていました。
「お角さん、お前さんはどこへ行くの」
と言ったのはお銀様であります。
「はい、そこまで、ちょっと用足しに……」
お角としては怪しいほど神妙に返事をしました。
「お連れがおありなさるの」
「いいえ……」
と言ったけれども、それは甚だまずい言抜けに過ぎません。
「もし、御用がないのなら済みませんが、そこまで、わたしと一緒に来て下さいませんか」
お銀様からこう言われたのが、この場合、お角にとっては勿怪《もっけ》の幸いであったらしく、
「はい、お伴《とも》を致しましょう」
と言ってしまいました。それで納まらないがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が向き直るとお角は、それにカブせるように、
「百蔵さん、このお方は、もと、わたしのお世話になった御主人様のお嬢様ですから、わたしはちょっと御一緒に行って参ります、それで今晩はあそこへ行くのはやめましょう、直ぐに帰りますから、両国へ行って待っていて下さい。友さん、お前も両国へおいで」
そこで相合傘が、また二つにわかれました。
お角のさして来た蛇の目の傘には、お銀様が入り、お銀様のさしていた番傘を米友に渡すと、米友は、それを受取って不承不承に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の上へ差しかけます。
蛇の目の傘は両女を容れたまま、もと来た方へ動き出したから、こうなってみるとがんりき[#「がんりき」に傍点]も、それを追蒐《おいか》けて袂を引くのもみっともないとあきらめたのか、だまって見送っているだけでした。
「や、こりゃ、どうも兄さん有難う」
ようやくのことで、番傘を差しかけてくれている米友の好意に気がついてみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]も動き出さなければなりません。動き出したところで今度は蛇の目の傘ではなく、番傘で、そうして相合傘の主も、得体《えたい》の知れぬ河童《かっぱ》のような男だから、多少うんざりしないわけにはゆかない。しかしながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]はさすがに如才《じょさい》ないところがあるから、金助のように見てくれだけで頭ごなしに米友を侮辱するようなことはありません。
「兄さん、お前さんは、どっちへおいでなさるんだね。わたしゃ、そこいらで、ちょっと一杯やりたいんだが、なんなら附合っておくんなさいな」
と優しく米友を誘いました。
「おいらは、そうしてもいられねえんだ、一杯やるんならおめえひとりでやんねえ、傘はおめえに貸してやらあ」
こう言って米友に番傘を差しつけられたから、さすがのがん
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