何とやらの殿様とは、あんまり桁が違い過ぎるけれど、女軽業の親方と駒井能登守とは、あんまり桁が違わねえのかい」
「まあお前さん、それを知っているの、駒井の殿様を御存じなの」
「ばかにするない、甲州勤番支配の時分から先刻御承知の殿様だ、鉄砲が大層お上手だそうだけれど、女にかけては根っから二本棒の殿様だ、身分違いのロクでもねえ女にひっかかって、あったら家柄を棒に振ってしまった殿様なんだ。どこをどうしたか、それをこのごろお前《めえ》が引っかけて物にしているということが、いつまでがんりき[#「がんりき」に傍点]の耳へ入らずにいると思っているのだ。そりゃ痩せても枯れても、もとは三千石の駒井能登守、お前の腕で絞ったら、まだずいぶん絞り甲斐もあるだろうが、そんな気のいい殿様を、お前のようないかもの[#「いかもの」に傍点]に二度三度絞らせておいちゃ、見ても聞いてもいられねえ、お目にかかって御意見を申し上げようと思っているのだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はこう言って歩き出したから、お角も仕方がなしに傘をさしかけて、二人は相合傘の形で柳橋を渡りました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]からこう言ってせがまれると、お角も困《こう》じ果ててしまいます。
無論、いいかげんのお座なりでごまかし了《おお》せる相手ではなし、そうかと言って、駒井甚三郎に引合わせようなどは以てのほかです。会わせないと言えば、こだわりをつけるに相違ない。お角も、この男にだけは尻尾を押えられていると見えて、しょうことなしに相合傘《あいあいがさ》で歩き出してはみたものの、橋を渡りきってしまえば甚三郎の宿は近いのですから、先へ進む気になれません。
「行っても仕方がないから帰りましょうよ、小屋へ帰って、ゆっくり話をしようじゃありませんか」
こう言って賺《すか》してみたけれども、無論おいそれと応ずる男ではありません。
そこで二人は、橋の欄干に添うて、押問答をしておりました。
この時、他の一方の橋の袂《たもと》から、また一組の相合傘が現われました。その相合傘は、こちらの相合傘とはだいぶ趣を異《こと》にしています。こちらは蛇の目の傘であるのに、あちらのは買立ての番傘でありました。一本の傘の下に二人の人が、雨を凌《しの》いでやって来るのは同じこと。またその二人が、一方が男であり、一方が女であることも同じだが、あちらのは、女の人がお高祖頭巾《こそずきん》で覆面をしているのに、男の方は素面《すめん》です。お高祖頭巾の女の面《かお》つきはわからないけれども、素面でいる男の方は、一目見てもそれとわかる宇治山田の米友に紛れもありません。
米友はあの通り背が低いのに、お高祖頭巾の女は人並よりこころもち高いくらいですから、この相合傘はあまり釣合いが取れません。第一、宇治山田の米友というのが相合傘の柄ではありません。お高祖頭巾の女がその番傘をかざして、米友は気の毒そうに例の杖をついて、その傘の下に歩いて来ましたが、柳橋を渡りかかると、怪訝《けげん》な目をして橋の上をながめます。それから神田川の水の流れを、何か思案ありげにながめて渡ります。
「ね、あの晩、この橋の上に立っていた人は、わたしはたしかに見たことのある人のように思いました」
お高祖頭巾が米友に向ってこう言いました。このお高祖頭巾の女というのが、藤原のお銀様であることは申すまでもありません。お銀様がそう言ったから米友は頷《うなず》いて、
「そう言われると、おいらもなんだか見たことのある人のような心持がするんだ」
米友も、以前、舟を漕いで来たあたりを見下ろして返事をしました。この不釣合いな相合傘が、橋の半ばへ進んで来た時に、
「御免なさい」
橋の欄干に立ちもやって押問答していた一方の相合傘とすれ違いになって、傘と傘とが軋《きし》り合いましたから、どちらでも御免なさいと言いました。
御免なさいと言いながら、傘を傾けておたがいに面《おもて》を見合わすと、
「おや、お前は米友じゃない? 友さんじゃないか」
と言ったのはお角の声であります。そう言われて米友はギョッとしました。前にも言う通り、この女軽業の親方お角だけが、宇治山田の米友にとっては唯一の苦手であります。かなり大胆不敵の米友も、お角に一言いわれると身がすく[#「すく」に傍点]むようになるのは、前世の宿縁というものか知らん。
「あッ」
と言って、さすがの米友が舌を捲いて、面《かお》の色を変えてたちどまりました。
「まあ、久しぶりじゃないか、米友さん、お前はこのごろどこにいるの」
舌を捲いている米友をお角が発見したのは、おそらく甲斐の国|石和《いさわ》の袖切坂以来のことでありましょう。あの時にお角は、米友を発見して、転んではならない袖切坂の途中で転びました。
その時にお角は、鼻
前へ
次へ
全56ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング