、女もあろうに身分違いの女であったということ、わずかに、その賤《いや》しい女一人のために、あれほどの地位を棒に振って、半生涯を埋《うず》めてしまうような羽目《はめ》に陥っておしまいになったのが情けない。
 お家柄なら、御器量なら、男ぶりなら、学問武芸なら、何として一つ不足のないあの殿様は、その上に世にも美しい奥方をお持ちでありながら、その奥方はお美しい上に、やんごとなき公卿様《くげさま》の姫君でいらせられるというお話であるのに、それが、好んで身分違いの女をお愛しなさるということこそ、恋は思案のほかである。えらいお方ほど、女にかけては脆《もろ》いものか知らん。それとも駒井の殿様は、あんなお優しい御様子をしながら、やっぱりいかもの[#「いかもの」に傍点]食いでいらっしゃるのかも知れない。そうして世の常の女では食い足りないで、好んでお角のような女をお求めになるのかも知れない、というようなことまで船宿の夫婦は想像してみましたけれど、まさか、どういう御関係でございますと聞いてみるわけにもゆかず、そのままにしておりました。
 お角はまた、どんな心持で駒井甚三郎をしげしげと訪ねるのか知らん。そのしげしげと訪ねるうちにも、お角としては念の入り過ぎたほどに、おめかしをして、乳の下あたりの動悸《どうき》を押えながら、そわそわとして通う素振《そぶり》が、よっぽどおかしいものです。さりとてこの女が、駒井甚三郎に恋をしかける女ではない。また男ぶりに、ぽーうと打込むというような女でもない。だから、しげしげ駒井のところへ通うとしても、露骨に言ってしまえば、駒井の懐ろを当て込んで、その信用を取外《とりはず》すまいと心がけているのでありましょう。
 駒井甚三郎は落魄《らくはく》したけれども、まだ大事を為すの準備として、相当の資金がいずれにか蓄えてあるはずである。ことによると、お角が両国橋へ旗揚げの資本も、駒井が所持金の一部を割いて貸し与えたのかも知れない。ただ、転《ころ》んでもただは起きないお角が、駒井甚三郎の男ぶりに打込んで、これに入れ上げようとして通うものではなく、かえって駒井を利用するの意味で御機嫌を伺っているのだということだけは、どちらにもよくわかっているはずです。
 お角は蛇の目をさして、柳橋の袂へかかりました。
 お角が柳橋の袂まで来ると、頬冠《ほおかぶ》りをして、襟のかかった絆纏《はんてん》を着た遊び人|体《てい》の男が、横合いから、ひょいと出て来て、いきなり、お角の差している傘の中へ飛び込んだから、お角も驚きました。
「何をするの」
「お角、久しぶりだな」
 それは玄冶店《げんやだな》の与三郎もどきの文句でありました。その文句でお角が気がついて、
「おや、百さんじゃないか」
「うむ、百だよ」
と言いました。この頬冠りこそ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵です。
「なんだってお前、こんなところにいたの、両国へ訪ねて来ればいいじゃないか」
「両国へ訪ねて行ったんじゃ、バツの悪いことがあるから、ここに待ち合せていたんだ」
「雨の降るのに、傘もささないで」
「柳の下に、お前の来るのを、ぼんやりと待っていたんだ」
「わたしはこれから、ちょっとそこまで用足しに行って来るから、お前さん小屋へ行くのがいやなら、そこいらで一杯やりながら待っていておくれ」
「そいつもいやだ、お前《めえ》の行くところへ一緒に行きてえんだ、そうでなくってお前、雨の降るのにこうして、柳の下に立っていられるものかな」
「だって、わたしは、お前さんと一緒じゃ行かれないところへ行くんだから」
「だから、折入ってお伴《とも》が願いたいんだ、亭主と一緒には行けねえところへ、相合傘《あいあいがさ》で乗り込もうという寸法が、面白いじゃねえか」
「お前さん、何かいや[#「いや」に傍点]に気を廻しているね、わたしのこれから行こうとするのは、そんなわけじゃありませんよ、後暗いことなんぞはありゃしませんよ」
「誰もお前に後暗いことがあったとは言わねえ、だから一緒に出かけて、先方のお方にもお目にかかって、お前がいろいろお世話になるんならお世話になるように、俺の方からもお礼を申し上げておきてえのだ」
「あいにく、それがお前さんとは、ちっとばかり話の合わない人なんだから、お目にかかったって仕方がないよ」
「話が合うか合わないか、話してみなけりゃ判らねえや」
「だって、先方《むこう》は殿様だもの」
「おや、殿様だって? どこのどうした殿様だか知らねえが、お前《めえ》が特別の御贔屓《ごひいき》にあずかっている殿様へ、おいらがお礼を申し上げて悪かろう道理はなかろうじゃねえか」
「それにしたってお前、あの殿様とお前さんとは、あんまり桁《けた》が違い過ぎるからね」
「なるほど、このがんりき[#「がんりき」に傍点]と、
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