ているのは、一座の棟梁《とうりょう》のお角であります。
「わたしは、これから柳橋まで行って来るから、あの子が帰ったらどこへも出さないでおくれ、お迎えがあっても、なんとか言って断わっておくれ」
 誰にともなく、こんなことを言いつけたが、それでもまだ落着いて煙草をのんでいて、立とうともしません。
 傍に茂太郎がいないところを見ると、ここにあの子と言ったのは、その茂太郎のことでありましょう。茂太郎が今宵もしかるべき客筋から招かれたから、出してやったあとで、お角は、こうしてひとりで、物案じをしているらしい。
「どうも、今日のお客は変だよ、後から行ってみようとは思ったけれど、それもおかしいから、ああはしてやったものの、なんとなく気が揉《も》めるのはどうしたんだろう、行ってみようかしら。それも、あんまり腹を見られるようだし、そうかと言って、相手がどうも尋常《ただ》のお客ではないらしいから、ほうっておいてもしや間違いが……間違いといったところで、相手がやっぱり女のお客だから、取って食おうというわけでもなかろうけれど、なんだか、わたしゃ、今日に限って、あの子を人に取られてしまうような気がしてならない。柳橋の殿様へもお伺いしなければならないんだが、それよりもあの子の方が気にかかる。といって、あの子が帰ってからお伺いしたんじゃ、殿様に恐れ多いし……いやになっちまうね。稲ちゃん、稲ちゃん、そこにおいでなら、ちょっと来ておくれ」
「はい」
 幕帳《まくば》りで仕切った楽屋の後ろから、かなり美人の部に属する女軽業の娘が面《かお》を出すと、
「あのね、茂太郎を呼んで下すったという今日のお客様は、どんな人だったか、お前知ってるでしょうね」
「あの、桟敷《さじき》においでなさる時に、ちらりとお見かけ申しましたが、切髪でいらっしゃるけれども、なかなか品のよい、美しいお方でございました」
「お前、御苦労だが、若い衆をつれて、ちょっと迎えに行って来てくれないか、わたしはこれから外へ出かけるんだが、あの子が帰っていないと心配になるんだから、お客様の御機嫌を損ねないようにお話をして、早く帰していただくようにね」
「畏《かしこ》まりました」
「近いところだけれど、このごろは物騒だから気をつけてね」
 お角は、わざわざ茂太郎を迎えにやっておいても、まだ何か心配が残っているらしく、柳橋へ行こう行こうと言い言い、まだ煙草を吹かしながら、
「なんだか、その切髪のお部屋様らしいお方というが気にかかる」
と言いました。
 茂太郎が多くの婦人客から可愛がられて、その席へ呼ばれるのは今に始まったことではないのに、今日のお客に限って、お角が留守の間に、楽屋のものをうまく籠絡《ろうらく》して、茂太郎を拉《らっ》して行ったもののように思われてならない。何か特別に、茂太郎に野心があって、物ずきな若い御隠居の美人が、誘惑を試みたように思われてならない。いつもならば、そんなに心配になることではないのに、前後の事情を聞いてみれば、おかしなことが多い。お角はそのことを、いろいろに思案していたが、やがて、荒っぽく火鉢の縁を叩いて煙管《きせる》を投げ出し、どてら[#「どてら」に傍点]を脱いで帯を締め直しました。ようやく、その柳橋の殿様とやらへ伺候する気になったものと見える。
 お角が軽業小屋を出た時分に、雨が降り出していました。
 下足番が蛇の目の傘を差しかけて、送って行こうというのを、お角は断わって、傘だけを受取って外へ出ました。
 お角がこれから訪ねようとするのは、柳橋の船宿にいる駒井甚三郎の許《もと》であります。ついこの間、その界隈で辻斬沙汰があったところだけれど、まだ宵の口ではあるし、両国から柳橋まで、ほんの一足のところですから、お伴《とも》をつれなくっても心配ではありません。
 お角は派手な着物を着て、それに薄化粧さえしているようです。こうしてお角が柳橋に駒井を訪ねるのは、今に始まったことではありません、三日に上げず宵のうちに駒井を訪ねて、でも、そんなに長話はしないで帰ります。駒井もまた、お角の訪ねて来ることを好まないではないらしい。ただ何のために、こうして、しげしげお角が駒井を訪ねて来るのだか、また駒井ほどの人が何用あって、しばしば、お角のような女を近づけるのだか、そこの辺が、どうも腑に落ちないようです。そこで、もとは駒井の先代の家に仲間奉公をしていたというこの船宿の亭主と、おかみさんとは、その噂をして、お角が来るたびに小首を捻《ひね》っているのであります。
 駒井の殿様ほどの人が、あんな女を相手になさろうはずはないと思うけれども、そこは、あたりまえに考えてしまうわけにはゆかない。あれほどの殿様が、甲州をしくじ[#「しくじ」に傍点]っておいでになったのも女のためであった。その相手の女というのは
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