りき[#「がんりき」に傍点]も苦笑いをしないわけにはゆきません。せっかくの相合傘の相手が振替えられた上に、その振替えられた相手から刎《は》ねられる始末だから、いやはや、色男も台なしという体《てい》でありました。そうして詮方《せんかた》なく苦笑いをしながら、
「それでも兄さん、わたしが傘を借りてしまったら、お前さんは濡れるんだろう」
「おいらなんぞは濡れたっていいやな、土団子《つちだんご》じゃあるめえし」
 米友がこう言いました。米友が土団子じゃあるめえしと言ったのは、洒落《しゃれ》でも警句でもないだけに、おかしいところがあります。どちらかと言えば米友は、土団子のような人間でありますから、がんりき[#「がんりき」に傍点]もおかしく思いながら、
「土団子でねえにしても、お前さんを濡らしちゃ気の毒だ。それじゃあ、わたしはそこいらで一杯やることにしますからね、兄さん、御苦労だが、そこまで送ってやっておくんなさいな。ナニ、どっちでもかまわねえんだ、あいつらが両国の方へ行ったから、同じ方へ行くのも癪《しゃく》だ、代地《だいち》の方へ行きましょうよ」
 こう言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]が、橋の上を歩き出そうとすると、
「遠慮をしなくってもいいやな、傘は貸して上げるから、一人で勝手なところへ行きな、おいらは送って行くのは嫌だよ」
「だって、兄さん、濡れたって詰らねえじゃねえか」
「いいよ、おいらは濡れたってかまわねえんだ、ズブ濡れになった方が、気持がいいくらいなものだ」
「自暴《やけ》なことを言いっこなし」
「自暴なんぞを言やしねえ」
「そんなことを言わずに、おとなしく相合傘という寸法で行こうじゃねえか。一人で差したる傘なれば、片袖濡れようはずがない、なんぞは乙なもんだが、フラれて、自暴で、ズブ濡れなんぞは気が利かねえ、兄さん、相合傘とやりましょうよ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は強《し》いて米友を、相合傘に捲き込もうとするけれども、米友は頑として聞かない。ぐずぐずしていると傘を抛りつけて行ってしまいそうですから、相合傘の押売りなんぞは気の利かないことこの上なしだと、がんりき[#「がんりき」に傍点]も呆《あき》れ返ってもてあましている途端に、フイと気のついたことがありました。
「おい、兄さん、ちょっと待ってくれ」
 米友を呼び留めたけれども、米友は矢も楯も堪らなくなっていました。開いたなりの傘をそこへ抛り出して、勝手にしやがれという態度で、跛足《びっこ》の足を引きずって、雨の中をさっさと駈け出してしまいます。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、いよいよテレたもので、苦笑いが止まらず、ぜひに及ばない面《かお》をして、橋の上でグルグル廻っている番傘を片手で取押えて肩にかけ、米友の走り去った方面を見送っていましたが、やがて、あきらめて、橋を渡って代地あたりの闇に消えてしまいました。この時分のこと、例の船宿の二階で、書きものをしながら、お角の来るのを待っていた駒井甚三郎は、約束の時間に至ってもお角の姿が見えないから、なお暫く待っていたけれども、音沙汰がありません。そこで、書きものを始末をして立ち上ると、緞子《どんす》の馬乗袴《うまのりばかま》を穿き、筒袖の羅紗《らしゃ》の羽織を引っかけ、大小を引寄せて、壁にかけてあった大塗笠《おおぬりがさ》を取卸しました。これからいずれへか出かけて行くものと見えます。出かける前に、お角に会っておきたい用件があるのでしょう、もしやと再び机の前に坐り、火鉢の上に手をかざして、更に消息を待っているもののようでしたが、お角の姿は見えないし、ことわりの使もやって来ないから、もうあきらめたものと見えて、大小を取って手挟《たばさ》みました。駒井甚三郎は、近々《ちかぢか》に房州へ帰らなければならぬ。このほど江戸へ上って来たのは、洲崎《すのさき》の海岸で船を造らんがために、その費用と、材料と、大工とを求めんがために、来たものであることは申すまでもありません。お角も茂太郎も、それと一緒には遣《や》って来たものの、駒井にとっては、それは偶然の道連れに過ぎないが、お角や茂太郎にとっては、駒井甚三郎は再生の恩人であります。駒井の役に立つことならば、何を置いてもつとめなければならないし、もし甚三郎が急に立つものとすれば、やはり何を置いても見送らなければならぬはずです。

         十

 机竜之助は、あの晩から再び弥勒寺《みろくじ》の長屋へは帰りませんでした。染井の化物屋敷へも姿を見せた形跡はありません。練塀小路《ねりべいこうじ》の湯屋を出たのはたしかに、その人であったに相違ないけれど、早駕籠《はやかご》の行先はわかりません。
 けれども、天にかくれようはずもなし、地にくぐろう術《すべ》もないから、日ならずどこかへ
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