いうのでもなく、山頂に鎮座するこの山の守護神、飯綱権現《いいづなごんげん》の社前へ一気に上って来ると、社の前に例の箱入りの名刀を供えて、二人とも跪《かしこ》まって柏手《かしわで》を打ち、恭《うやうや》しく敬礼しました。
「南無飯綱大権現」
七兵衛がこう言って拝礼すると、
「南無甚内殿、永護霊神様」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]が続けます。次にがんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「南無飯綱大権現」
と言って跪《ひざまず》くと、七兵衛が、
「南無甚内殿、永護霊神様」
と言ってハタハタと手を拍《う》ちます。こうして二人が、立ったり跪いたりして、祈念を凝《こ》らす言葉を聞いていると、一方が飯綱大権現という時は、一方が南無甚内殿といい、一方が南無甚内殿と言う時は、一方が飯綱大権現というのであります。
この二人のやつらが、殊勝な面《かお》をして神様に拝礼することですから、かなり奇怪なものであるけれど、いったい飯綱権現は、どうかするとこんな連中の信者を持ち易い神様であります。飯綱の本尊は陀祇尼天《だきにてん》ということであるが、その修験者は稲荷《いなり》とも関係があって、よく狐を遣《つか》って法術を行うということであります。飯綱の法術は人を惑わすものであるというところから、変幻出没を巧みにしようという輩《やから》は、この権現の特別な加護を蒙《こうむ》りたいものらしい。七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]とが、途中の気紛れにしろ、こうして飯綱権現へ願をかけてみようとする筋合いは読めないことでもないが、ちょっとわからないのはそれに続く、南無甚内殿、永護霊神様という神様の名前であります。甚内殿という神様は、どこにあるのか。また飯綱権現の一名を永護霊神とは呼ばないはずです。
二人は、殊勝な面をして、飯綱権現に祈祷を凝らしておいて、神前に備えた安綱の名刀を、まず七兵衛が取り上げておしいただいてから、
「どうだい、こんな名刀を甚内様に持たしたら、ずいぶん人を斬るだろうなあ」
と言いました。
「うーん、こりゃ人斬庖丁にゃ勿体《もってい》ねえんだ、伯耆の安綱なんて刀は、神様に備える刀で、人を斬る刀じゃねえとよ。滅多に人を斬るには村正がいいね、村正てやつは、なんとなく凄味があっていいね」
がんりき[#「がんりき」に傍点]がこういう返事をしました。
こんなことを言って二人は、山頂の飯綱権現の社から下りて来ました。見受けるところ、二人がわざわざ道を枉《ま》げたのは、単にこうして飯綱権現の前へ安綱を、見せびらかしに来ただけであるようです。
二人が例の刀箱を持って高尾山を下りながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、七兵衛に向って、一つの動議を提出致しました。
「どうだい、兄貴、こうして坊主持ちも根っから新しくねえ、これから江戸へ着くまで、二人で腕っくらべをやろうじゃねえか、おたがいに出し抜いて、せしめた方が、この刀を物にするということにしようじゃねえか、売り飛ばして山分けにするよりは、その方が柄《がら》に合って面白かろうぜ。もし、どっちの手にも落ちなかった時には、こりゃいっそのこと、鳥越の甚内様へ持って行って、さっぱりと納めてしまおうじゃねえか、どのみち、伯耆の安綱なんて刀は、誰が持ったって持ち切れる刀じゃねえ、持ちきれたにしたところで、差料《さしりょう》になる品じゃねえんだ、二人で腕だめしをやった上に、甚内様へ持って行って綺麗《きれい》に納めると、甚内様の供養にもなるし、こちとらの罪滅ぼしにもなろうというものだ。どうしたもんだ、兄貴」
がんりき[#「がんりき」に傍点]からこの動議を提出されると、七兵衛は苦笑いをしながら、
「そいつは面白かろう、手前《てめえ》を相手に腕くらべも大人げねえ話だが、甚内様へ奉納というのは、いいところへ気がついた」
そこで七兵衛も納得《なっとく》したらしい。高尾山から江戸までは、この連中にとっては、ほんの一足であるが、その一足の間に、伯耆の安綱の刀を的《まと》にして、二人が腕くらべをやってみようというようないたずらは、今に始まったことではないが、さいぜんから二人の口に上る甚内様というのは何物か。それは今までに見えなかった人の名であるに拘らず、この碌《ろく》でもない二人ともが、甚内様なるものには相当の敬意を払っていることがわかります。山の上では、甚内様、永護霊神様といい、ここでは鳥越の甚内様と言いました。もし、二人のうちのいずれにもこの伯耆の安綱の刀が落ちなかった場合には、それを鳥越の甚内様へ持って行って納めるということには、二人とも異議がないのであります。よってここに、鳥越の甚内様なるもののいわれ[#「いわれ」に傍点]を一通り、説明しなければならぬ。
八
浅草の鳥越橋の西南に、
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