御書院番の小出兵庫《こいでひょうご》(二千百石)という旗本の屋敷の中に、二人が今いう甚内様の社があるのです。
 神に祀《まつ》られるほどの甚内様とは何人ぞ。それは英雄にもあらず、また義人にもあらず、一箇の盗賊に過ぎないのであります。姓を高坂《こうさか》といって、名は甚内。父は甲陽の軍師高坂弾正であるということです。
「天晴《あっぱ》れ手練のこの槍先、受けてはたまらぬ大切《だいじ》の幼な児……」という二十四孝の舞台面は、かなりに高坂弾正の器量を上げるように書いてあります。そのはじめ、容貌を以て信玄に愛せられたところを以て見れば、また非常な美男子であって、その後、「保科《ほしな》弾正|槍弾正《やりだんじょう》、高坂弾正|逃弾正《にげだんじょう》」を以てあえて争わなかったところは、沈勇にして謀《はかりごと》を好む人傑の面影を見ることもできます。武田信玄の股肱《ここう》として、一二を争う智将であったことは疑うべくもない。
 その高坂弾正に一人の遺子《わすれがたみ》がありました。幼名を甚太郎といい、後に甚内と改めたその人がすなわち、鳥越の永護霊神として、半ば実在の人となり、半ば荒誕《こうたん》の人となり、奇怪な盗賊として祀らるるに至りました。
 父が没してこの遺子は、祖父の高坂|対馬《つしま》に伴われ、没落の甲州をあとにして、摂州|芥川《あくたがわ》に隠れて閑居しているところへ、祖父の知人であった宮本武蔵が訪ねて来て、夜もすがら語り明かした時に、祖父の対馬が甚内を武蔵に預けました。そのとき甚内は、まだ甚太郎といって、年僅かに十一歳であったということです。
 十一歳にして宮本武蔵に預けられた甚内は、その時から武蔵に従って江戸に下り、武蔵が神田お玉ケ池の近傍に道場を開いた時(武蔵がお玉ケ池へ道場を開いたことがあるかどうか考えないで伝説をそのまま借用すると)、そこで武蔵から真免流の免許皆伝を受けました。それは甚内が二十一歳の時のことであるということです。
 その時分、甚内は人の活胴《いきどう》を試みたく、ひそかに柳原の土手へ出て、往来の人を一刀に斬り倒していたが、或る時、飛脚を斬って金を奪ってから、ついに辻斬が盗賊にまで進んだ。それより悪行が面白くなり、辻斬をしては金を奪い、その金で鎌倉河岸の風呂屋女に耽溺《たんでき》していたが、その悪事が師なる宮本武蔵の耳に入って破門された。そこで諸国の遍歴を志し、その門出に参詣したのがこの高尾山の飯綱権現の社であった。その社の前で、名を甚内と改めて、生涯のある目的を祈願した。それから相州の平塚在に暫く足を留めて、そこで盗賊の首領となった。その後、箱根山へ隠れて強盗の張本となった。高坂甚内は、宮本武蔵に就いて剣道の奥儀を究《きわ》めた上に、強勇にして力量がある。ことに水練に達して久しく水底《みずそこ》に沈み、水の中を行くこと魚の如くであったと言われている。加うるに身体は不死身《ふじみ》であって、一切の刀剣も刃が立たないということでありました。
 その頃、「日本三甚内」とうたわれた三人の甚内があった。三人ともに同名で、そうして同じく兇悪なる盗賊であった。右に言う高坂甚内をその随一とし、もう一人は、庄司甚内――である。これは吉原を初めて開いた人であるが、前身はやっぱり盗賊で、剣槍《けんそう》に一流を究め、忍術に妙を得て、その上、力量三十人に敵し、日に四十里を歩み、昼夜眠らずして倦《う》むことなく、それに奇妙なのは盗賊ながら日本を週国して、孝子孝女を探り、堂宮《どうみや》の廃《すた》れたのをおこして歩いたというところが変っている。それともう一人は、飛沢甚内――これも同じく剣術、柔術、早業に一流を極め、幅十間の荒沢《あらさわ》を飛び越えること鳥獣よりも身軽であったところから、自ら飛沢と名乗った。これが捉まった時に、大久保彦左衛門の命乞いによって死罪を許され、身持ちを改め、苗字を富沢とかえ、横目の御用を蒙《こうむ》り、古着屋商売をして無事に天命を終えた。その住宅附近が後に富沢町となった。
 かくて高坂甚内は、箱根山に籠《こも》って悪事を働いていたが、詮議が厳しく、箱根山の住居もなり難く、そこを立退いて諸国を徘徊《はいかい》していたが、やがて再び江戸に舞い戻ると赤坂に住居を構え、例によって辻斬、強盗のほかには、表面は剣術を人に教え、内実は無頼の徒を集めて博奕《ばくえき》を業としていた。悪行いよいよ募って、そのころ牛込御門内に住居していた先手役《さきてやく》青山主膳(千五百石)の組与力同心《くみよりきどうしん》が召捕りに向ったところ、同心二人まで深傷《ふかで》を負い、与力も辛《から》き目に遭ってほうほうの体《てい》で逃げかえった。それを聞いて歯噛みをした主膳は、自ら召捕りに向わんとしたけれども、叛逆謀叛人でない限りは奉行
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