もなく逃げ去ったそれであります。
 あの後、二人は、この名刀を、この神社の天井裏へ今日まで隠して置いたものと思われる。まもなく身体中|煤《すす》だらけになって出て来た七兵衛は、小脇には油紙に包んだ細長い箱を抱えていました。伯耆の安綱は、やっぱり無事でここにいたものらしい。
 七兵衛が箱を抱えて再び社の前へ出て来ると、思いがけなく縁に腰をかけて、煙草《たばこ》をパクリパクリやりながら澄まし返っているものがあります。それが余人ではない、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でしたから、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、来ていたのかい」
 七兵衛も呆《あき》れ面《がお》です。すばしっこい[#「すばしっこい」に傍点]のは今にはじめぬことだが、かくまで澄まし返って、脂下《やにさが》っていられると癪《しゃく》です。
「兄貴、御苦労、御苦労」
 七兵衛の出て来たのを見て、銀張りの煙管《きせる》を縁の上へ抛《ほう》り出して、片手を伸べたものです。
「ふざけるない」
 七兵衛が叱りつけると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はニヤリニヤリと笑い、
「兄貴も思いのほか人が悪いや、弱い者を苛《いじ》めっこなし、人の物を横取りは風《ふう》が悪いね、なにもお前と、おれの間だから、欲しけりゃあそうと言っておくんなさい、ずいぶん譲って上げねえ限りもねえのだ、だまって持って行かれると心持が悪い……そうしてまた兄貴はこれを持ち出して、いったいどうする気なんだエ、失礼ながら、このなかみの有難さが、兄貴にはまだわかるめえ」
「百、お前の言う通りだ、このなかみの有難さは、俺の眼では睨《にら》みきれねえが、ぜひこいつを拝みてえという人があるんだから、ちっとばかり貸してもらいてえ」
「うむ、そう話がわかりさえすりゃあ、ほかならぬ兄貴に貸惜しみをするような、おれではねえが、まあもう少し待ってもらいてえというのはほかじゃねえ、おれの方にも、この品を一目拝みてえという人があるんだ、それを先口《せんくち》にして、それが済んでから、兄貴の方へ廻すとしようじゃねえか」
「そいつはいけねえ、先口と言えばこっちに割があるんだ、これ見ねえ、この通り、蜘蛛の巣だらけ煤だらけになって、骨を折ってようやく取り出して来たものだ、くわえ煙草で懐ろ手をしている奴に渡せるものか」
「そりゃまたよくねえ、立ってるものは親でも使えということがあるじゃねえか、おれだってなにも兄貴をこき[#「こき」に傍点]使って、くわえ煙草で澄ましていようという不了見じゃねえが、一足後れたのがこっちの不運さ、そんなことを言わずに貸してもらいてえ」
「一足後れたのが手前の不運だから、諦めるがいいや、今日のところは兄貴に譲らなくちゃならねえ」
「ところが、そういかねえのだ、約束をきめて来たんだから、持って帰らねえと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《つら》が立たねえというものだ、どうか弱い弟を憐《あわれ》んでおくんなさいまし」
「そう言われるとこっちも同じことだ、これを持って帰らねえと七兵衛の沽券《こけん》が下る、まあまあ兄貴に譲れ」
「そうなると兄貴、おれも意地だから、腕にかけても……と言いてえが、兄貴は両腕そろっているが、おれは悲しいことに一本足りねえ、そうかと言って、みすみす兄貴に譲って引くのも業腹《ごうはら》だから、ここでうまく、馴れ合っちまおうじゃねえか。と言うのは、兄貴の見せてえという人も、おれが見せてやりてえと言った人も、おおよそ筋はわかっているんだ、その人たちはなにも一本の刀を望んじゃいねえ、だいそれた謀叛気《むほんぎ》のある先生方なんだから、長くその手先になって働いてみたところが、ばかばかしいくらいのもんだ。だから兄貴、ここいらで見切りをつけて、二人が馴れ合って、こいつを坊主持ちということにして、江戸へのし[#「のし」に傍点]てしまおうじゃねえか。江戸へ持って行って、こいつをうまく売り飛ばしゃあ、五百や千両の小遣《こづかい》にはありつける代物《しろもの》だ、あんな人たちに附いて謀叛の加勢をするよりは、この方が、よっぽど割だぜ」
 南条、五十嵐らの志士は、甲府城を乗っ取って大事を起さんとし、山崎譲はまた彼等の陰謀の裏を掻いて、根を覆えそうとしている間に、おのおの、その一方の手引をして来た七兵衛、がんりき[#「がんりき」に傍点]の両盗は、その方は抛り出して、伯耆の安綱を持って、これから江戸へ飛び出そうという妥協が成立してしまいました。
 二人は、この名刀を坊主持ちにして、例の甲州街道を、都合よく縫って通ります。二人の足を以てすれば、ほとんど瞬く間に江戸へ飛んでしまうのだが、その途中どう道を枉《ま》げたものか、その翌朝、二人の姿を高尾山の峰の上で発見するようになりました。
 二人は高尾山上の薬王院へ参詣しようと
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