下へ着いて見たが、甲府城の内外には別に変ったこともない。今や勤番支配の駒井能登守もおらないし、組頭であった神尾主膳もいないが、そんなことは、別段にこの二人に交渉のあることではありません。
「山崎先生」
「何だ」
「久しぶりで甲府の土地へ足を入れて、はじめて思い出した事がありますよ」
「それゃ何事だ」
「ほかの事じゃございません、百の野郎がここの土地へ、いい寝かし物をしておいたことを、いま私が思い出しました。おそらく、百の野郎も忘れていやがると思いますが、そいつをひとつ取り出して来て、旦那のお目にかけましょうかね」
「何だい、その寝かし物というのは」
「そりゃ刀でございます、名刀が一振《ひとふり》かくしてあるんでございます」
「ナニ、名刀? 名刀なら有っても決して邪魔にはならねえが、名刀にも品がある、お前たちのいう名刀は、あんまり大した代物《しろもの》ではあるまい」
「それがなかなか素敵で、出処が確かなものなんですよ」
「古刀か、新刀か。在銘のものか、ただしは無銘か」
「古刀のパリパリで、たしかやすつな[#「やすつな」に傍点]と言っていましたよ」
「やすつな[#「やすつな」に傍点]? やすつな[#「やすつな」に傍点]もいろいろあるからな、出羽《でわ》にもあれば、下坂《しもさか》にもあるし、薩摩にも、江戸にもあるんだ、出来のいいのもあるが、そんなに大したものじゃなかろう」
「そんなんじゃございません、因州鳥取あたりにそのやすつな[#「やすつな」に傍点]というのはございませんかね」
「因州鳥取にやすつな[#「やすつな」に傍点]という刀鍛冶は聞かねえが……そうそう伯耆《ほうき》の国に安綱があるが、こりゃあ別物だ」
「それそれ、その伯耆の安綱でございますよ」
七兵衛がこういうと、山崎譲は、
「ふふん」
と鼻の先であしらい、
「伯耆の安綱といえば古刀中の古刀で、大同年間の人だ、名刀|鬼丸《おにまる》を鍛えた刀鍛冶の神様と言われる大名人だ、伯耆の安綱がそんなにザラにあって堪るものかい」
七
山崎は、テンで七兵衛のいうことを受附けなかったけれど、七兵衛は確信あるものの如く、
「論より証拠、その品を持って来てお目にかけましょう」
と言って、甲府城の大手の前で山崎と別れました。山崎に別れた七兵衛は、あれから一直線に甲府の市中を東に走って、まもなく酒折村《さかおりむら》まで来ると、そこで本街道を曲って入り込んだのが、酒折の宮であります。
酒折の宮の庭へ入って見ると、松林の間に人が集まって噪《さわ》いでいます。
日本武尊が東征の時、ここに行宮《あんぐう》を置いて、
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新治《にひはり》、筑波《つくば》を過ぎて幾夜《いくよ》か寝つる
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と歌を以て尋ねた時、傍の燭《しょく》を持てるものが、
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かがなへて夜には九夜《ここのよ》、日には十日《とをか》を
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と答えたという事蹟がある。
ここに立てる石碑のうちには、本居宣長《もとおりのりなが》の「酒折宮寿詞《さかおりのみやよごと》」を平田篤胤《ひらたあつたね》の筆で書いたものと、甲州の勤王家|山県大弐《やまがただいに》の撰した漢文の碑もある。七兵衛は、左様な委《くわ》しいことは知らないけれども、この社《やしろ》が由緒《ゆいしょ》ある社であるということは心得ているはずです。右等の碑文が、さほど好事家《こうずか》の間に珍重がられているという理由は知らないが、いずれ俳諧師かなんぞの風流人が、石摺《いしずり》を取っているのだろうと見当をつけました。
これらの連中からわざと遠廻りをして社の裏へ出て、暫く様子をうかがっていると、
「エエ、宝暦十二年、壬午《じんご》夏四月、山県昌謹撰とあるが、宝暦十二年は、いったい今から何年の昔になるのじゃ」
「左様な、宝暦は俊明院殿の時代で、ええと、今からおよそ、一百三年、或いは四年前に当る――」
こんなことを言って風流人は、紙に巻いたものを携え、ゾロゾロ松林の中を出て行ってしまいました。
そこで七兵衛は神社の表へ廻り、参詣をするふり[#「ふり」に傍点]をして扉をあけて、社内へ入り込むと足場を見はからって、梁《はり》を伝わって天井の上へ身を隠してしまいました。
これは申すまでもなく、さいぜん山崎譲の前で誓った、伯耆の安綱の刀というのを取り出しに来たものであろう。その伯耆の安綱の名刀というのは、お銀様の家、藤原家に祖先以来伝わる名刀であって、それをお銀様に頼んで幸内が持ち出し、幸内はその刀のために、神尾の惨忍な手にかかって一命を落し、その刀はまた神尾の手からがんりき[#「がんりき」に傍点]の百の手にうつり、百は流鏑馬《やぶさめ》の夕べを騒がして、七兵衛と共にいずこと
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