した、それからこうやって着物を探って引っかけるところを見ましたがね、右の手首のところを晒《さらし》で巻いていましたよ、その晒の外れに血が滲《にじ》んでいるところを見て、ゾッとしましたぜ」
「え、え!」
「だから、凄いと思いました。今時分、お前さん、真先がけで新顔の朝湯に来てさ、おまけ[#「おまけ」に傍点]に腰の物を大事に抱えてやって来てさ、手首に怪我をしてるんですからな、ただの傷じゃありませんぜ。よく殺気を含んでいると言いますがね、わたしゃ、あの時に直ぐそう思いましたよ、このさむらいは人を斬って来たんだ、その汚れを落すために、朝湯に飛び込んだんだ、そう思ったから、わたしゃいやになって、せっかく裸になりかけたのを締め直して、こうして、つぐんでしまったところですよ」
「へえ――そうかも知れませんね」
一同が面《かお》を見合せた時に、けたたましい音を立てて梯子段を駈け上って来たのは、道庵先生であります。無論、素裸《すっぱだか》です。その時、先生は、いつもの先生とは違って、すさまじい権幕をして、
「どこへ行った、どこへ行った」
と言って、衣裳棚の前で、てんてこ舞[#「てんてこ舞」に傍点]をしている先生の片手には、手拭かと思うと、そうではない、晒の切れを引きずっているが、その晒の切れは、ところどころ血の滲《にじ》んだ細い切れであります。
定連《じょうれん》の朝湯の客は、この物狂わしい先生の挙動を、寧《むし》ろおかしがっていたが、先生は大急ぎで着物を引っかけて、帯を締めると、湯銭も茶代も、そっちのけにして、梯子を下りて表へ飛び出してしまいました。裸で飛び出さなかったのが見《め》っけ物《もの》で、煙草盆を蹴飛ばさなかったのが勿怪《もっけ》の幸いです。
「油断も隙もなりゃしねえ、どうもおかしいと思ったんだ、なんだか横顔にチラリと見覚えがあるから、こいつ、おかしいなと思ったんだ――野郎、伊勢の国のことを忘れたか、船大工のうちで、拙者が目をかけてやったのを忘れやすまい、江戸へ出て来たんなら、出て来たと拙者のところへ、一言《ひとこと》の挨拶があっても悪い心持はしねえ、あの目がよ、あれでじいっと心がけをよく養生をしていりゃあ、どうやら物になる眼なんだが、あの心がけじゃ物にならねえや、いい気味だ、あん畜生――いい気味はいい気味だが、今、どこに何をしているんだ、ああして朝湯に来るんだから、この近所にいるんだろう、近所にいるんなら近所にいるで、とかく近所に事勿《ことなか》れ……ところが、どうだ、悪いことはできねえもんだなあ、この晒の切れが、ちゃんと流し元に落っこっていたやつを、人もあろうにこの道庵に見つけられちまった」
何か重大な発見でもしたかのように、道庵は息せききって走りつづけているけれども、一向、何を追っているのだかわからない。四辺《あたり》をキョロキョロ見廻したけれども、それらしいものは何者も見えません。
さきに、掻《か》き消すように朝湯を抜け出でた盲目の怪人は、四ツ角に待たしておいた手駕籠に乗って、いずこともなく飛ばせてしまったその後のことであります。
六
下仁田《しもにた》街道から国境を越えて、信州の南佐久へ入った山崎譲と七兵衛は、筑摩川《ちくまがわ》の沿岸を溯《さかのぼ》って、南へ南へと走りつづけます。この二人の行手は説明を加えるまでもなく、南条、五十嵐らの浪士のあとを追って行くものであります。しかしてまた南条、五十嵐らの浪士は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百をところの案内として、甲府城をめざして進んで行ったことも明らかであります。彼等は、甲府の城を拠点として、容易ならぬ陰謀を企《くわだ》てんとしていることも明らかであります。
それを察した山崎らは、事の発せざるうちに、その巣窟を覆《くつがえ》してしまわなければならぬ――蓋《けだ》し、南条、五十嵐らは強力《ごうりき》に身をやつして都合五人で、この山道へ分け入ったけれども、必ず何れかに根拠地があって、そこでひとたび合図をすれば、なお幾多の同志が続々と集まって来ることにはなっているだろう。また山崎こそは単身で、あとを追いかけたようなものだが、甲府の地へ足を踏み入れた時は、勤番の武士は一呼《いっこ》して皆、その味方になるべきはずである。
しかしながら、どう間違ったものか山崎と七兵衛との二人は、ついに南条、五十嵐らの一行を突き留めることができないで、甲府の城下に着いてしまいました。山崎も七兵衛も、その用心にかけては優劣のない方ですから、同じ道を通ったならば、彼等に出し抜かれるはずはない。道を違えたものか、或いは横道をして外《そ》らしたものか、それはとにかく、早く甲府の城下へ到着することが先手である、と思ったから二人は、無二無三に甲府の城下へ到着しました。
城
前へ
次へ
全56ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング