いらっしゃるし、それに西洋の方の学問まで、ちゃあんと呑込んでおいでなすって、それを知っているともいう面をなさらないところが、お見上げ申したもんだ。いつぞやはまた上野の山下で、持余《もてあま》し者《もの》の茶袋を、ちょいと指先をつまんで締め上げて、ギュウと参らせてしまったところなんぞは、どのくらい柔術《やわら》の方に達しておいでなさるんだか底が知れねえ。昨晩は昨晩で、また命知らずの浪人が何十人というもの、第六天の前から柳橋へかけて斬り結んでいたところへ、先生が通りかかって、一声、言葉をかけると、散々《ちりぢり》バラバラ逃げ去ってしまったということでございますね、どこへ行ってもその評判で持ちきりでございますよ。実際、あの先生は、ああしてふざけ[#「ふざけ」に傍点]ておいでなさるけれど、学問といい、武芸といい、まあ昔で言えば由井正雪といったようなお方だが、世が世だから、ああして酒に隠れてふざけ[#「ふざけ」に傍点]ておいでなさるんだ、町内ではあの先生を大切にしなくっちゃならねえ、あの先生こそ町内の守り神だって、みんなでそう言ってたところですよ」
まんざら、おひゃらかすとも見えないように真顔《まがお》になって、先生を讃《ほ》め立てたから堪りません。
「そんなでもねえのさ」
道庵先生は、ニヤリ笑いながら顋《あご》を撫でて、
「まあ、話半分に聞いてもらいましょうよ。よく言ったものさ、藪《やぶ》にもこう[#「こう」に傍点]の者と言ってね、藪は藪なりに、時々功名手柄をするところがおかしいのさ。昨夜なんぞはお前さん、拙者が通り合せなくてごろうじろ、たしかに焼討ちだね。あのなかにはお前、日本で無双の砲術の名人が隠れていたんだぜ、それがお前さん、舶来のカノーネルというやつを引張り出して柳橋の袂《たもと》へ据えつけ、これから向う岸へぶっ放そうというところへ、折よく拙者が通りかかって、憚《はばか》りながら長者町の道庵だ、と名乗りを揚げて、不足であろうが十八文に免じて拙者に任せてもらいたい、こう言って柳橋の真中へ大手をひろげて突立ったものさ、そうすると、やはりなかには相当のわかった奴もあって、よろしい――ほかの人では任せるというわけにはいかねえが、道庵なら任せてもよろしい――」
「先生、もうたくさんです、そのくらいにしておいていただきましょう」
堪り兼ねたのが両手をかざして、先生の口を抑えようとします。そこで大笑いになりましたが、その間に道庵は大あわてにあわてて、脱いだ衣裳を棚へ押し込んで鍵もかけず、浴槽へ向って逃げるが如く駈け下りました。
あとでは、やはり腹を抱えて笑ったものがあるけれども、それでも先生の人徳で、誰もその法螺《ほら》をにくがるものもなく、あえて軽蔑しようとする者もありません。ああ言って眼に見えた法螺を吹いては、しょげ返ってしまうところが先生の身上だ、あれがエライところだと言って、よけいなところへ有難味をつけるものもありました。
ところへ、湯から上って来た人があります。それはさいぜん、朝湯のい[#「い」に傍点]の一番に入浴した見慣れない盲目《めくら》の人でありました。いつのまに上ったか、もう棚の中から着物を取り出して帯を締めて、二階番のところへ行って預けた大小を受取ると、若干の茶代を置いて、煙の如く梯子段を下りて消えてなくなりました。
二階番も最初から怪訝《けげん》な面であるし、居合わせた定連の者も、呆気《あっけ》にとられてそれを見送って、面を見合わせました。
「盲目だね」
「盲目にしてはおそろしく勘がいい」
「梯子段から上って来て、すーっと消えてしまったところが、眼に残っているような、眼に残っていないような、変な心持だ」
「わたしはまた、ひょっと振返って見た時に、幽霊! と思いましたよ、あの顔色をごらんなさい、まるで生きた人じゃありませんね、この世の人じゃありませんよ」
「いやだね、全くいやな気持のする人だ、一目見ただけでゾッとする人だ、あんなのは、キット戸の透間《すきま》からでも入って来る人ですぜ」
「あんなのがお前、辻斬に出るんじゃないか知ら」
「だって、盲目ではね」
「目が明いていたら、きっとやるに違いない、剣難の相というのは、たしかにあんなのを言うんだろう」
「そうだね、あれこそ剣難の相というんだろう、畳の上じゃ死ねない人相だ、人を斬って業《ごう》が祟《たた》ったから、それで盲目になったんだろう」
「そう言えばそうだ、ありゃ、確かに剣難の相というものだ、人相は争われない」
「全く人相は争われない、剣難の相はどこかに凄味《すごみ》がある、女難の相は鼻の下が長い」
「笑いごとではありません、皆さんが剣難の相とおっしゃったのは、よく当っている、わたしゃね、皆さんよりいちばん先に、あのおさむらいが下から上って来るところを見ま
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