うとすると、
「寅吉、お前は危ないから出て来るな」
「殿様こそ、お危のうございますよ」
「出て来てはいかん、閾《しきい》より出てはならぬと言うに」
 甚三郎は寅吉を抑えて、表へ出さないようにして、自分だけは提灯をさげて橋の方へ出直しました。
 閾の中にいて、戸の間から面《かお》だけを出した寅吉は、安からぬ色をして駒井甚三郎の後ろ姿を見送っているが、その心配のうちにも、また安んずるところがあるのは、それはこの殿様が、もとより武芸にかけて何一つおろそかはないが、ことに鉄砲にかけては、海内無双《かいだいむそう》であるということを知っているからであります。そうして、懐中には、いつもその時代最新式の、外国から渡った短銃を離したことのないのも知っているからであります。
 駒井甚三郎は、向うへ歩んで行きながら提灯《ちょうちん》の光で地面を照して、気をつけて見ると血汐《ちしお》のあとが、ぽたりぽたりと筋を引いているのであります。斬合いは、たしかに柳橋の上で起っている。どちらがどうともわからないが、その人数は一人ではなく、たしか三人以上の斬合いになっている。もし三人とすれば、必ずや一方は一人、一方は二人であるに相違ない。自分のいるところの門口へ来て倒れたのは、そのうちのどちらか知らないが、まだ二人はたしかに橋の上に残っているはずである。負傷して橋の上に残っていなければ、どちらへか逃げて行ったものであろう。逃げて行ったとすれば、その二人で、この一人を討って立退いたものであろうが、それにしては卑怯である。喧嘩か、意趣か、辻斬か知らないが、二人で一人を斬って、その最期も見届けずに逃げてしまうのは腰抜けである。それはあるべからざることだから、多分、その二人も傷ついて、そこらに斃《たお》れているだろう。駒井甚三郎は、そう思ったから、現場を見届けるために橋の上まで来て、提灯を差し出すと、果せる哉《かな》、橋の欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついている一個の人影を認めることができました。
 駒井甚三郎は、その橋の欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついている人影に提灯を差しつけて見ると、それもしかるべき、若いさむらいでありました。
 前のは、ともかくも向う傷であったが、これは斬られて後に欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついたのか、逃げ場を失うて欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついたところをやられたのか、後《うし》ろ袈裟《げさ》に、ザックリと思う壺に浴びせられて、二言《にごん》ともなく息が絶えている形であります。その死物狂いで欄干へとりついたのが、木の枝にかじりついた蝉《せみ》のぬけ殻と同じような形であります。
 駒井は篤《とく》と提灯の光で、それを見届けた上に、なお徐《おもむ》ろに橋の上を進んで行くのであります。その進んで行く橋板の上はベットリと血だらけですから、ややもすればそれに辷《すべ》って、足を浚《さら》われようとする間を選んで徐《しず》かに歩きました。
 左には両国橋が長蛇の如く蜿蜒《えんえん》としている。右手は平右衛門町と浅草御門までの間の淋しい河岸で、天地は深々《しんしん》として、神田川も、大川も、水音さえ眠るの時でありました。
「駒井の殿様」
 堪り兼ねたと見えて寅吉が、あとを慕うて来ました。
「お危のうございますよ」
 駒井甚三郎は提灯を差し上げて、寅吉の方を照しましたけれど、その時は、もう来るなと言ってとめはしません。
「あッ」
と言って、寅吉は、その橋板に流されている血汐に辷りました。お危のうございますという口の下から、自分が危なく打倒れようとして橋の欄干に取縋《とりすが》った、ついその隣は、例のしがみ[#「しがみ」に傍点]ついた屍骸でしたから、慄《ふる》え上って飛び退きました。
「駒井の殿様、あんまり進み過ぎて、お怪我のないように」
 寅吉は橋を渡りきることができないでいたが、駒井甚三郎は頓着なく、橋の向うの板留まで歩いて行きました。
 そこで、ゆくりなく拾い上げたのは一口《ひとふり》の刀であります。それを駒井が提灯の光で見ている時、今まで眠れるもののように静かであった大川の水音が、遽《にわ》かにざわついてきました。潮が上げて来たものでもなく、雨が降り出したわけでもなく、水の瀬が開ける音がしたのは一隻の端舟《はしけ》が、櫓《ろ》の音も忍びやかに両国橋の下を潜って、神田川へ乗り込み、この辺の河岸《かし》に舟を着けようとしているものらしい。拾い上げた刀を見ていた駒井は、早くもその舟を認めました。刀を照らした提灯の光で、今時分、河岸へつけようとした怪しの舟の何者であって、どこから来たものであるかを確めようとしました。
 それを怪しいと見たのはおたがいのことで、ここまで乗りつけて来た小舟の船夫《せんどう》はまた、櫓を押すことを休めて、橋上を
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