い腰を擦《さす》って起き直ろうとした時に、先方のさむらいも同じく後ろに打倒れていることを認めました。しかも、酔っぱらっている道庵は、ともかくも起き直る余裕があるのに、向うへ打倒れたさむらいは、起き上る気力がありません。
「気をつけてもらいたいね」
道庵はこう言って起き上り、倒れた先方の人のところへ行って見ると、その人は虫の息です。道庵は、よくそんなところへ出会《でっくわ》せる男で、いつぞやも伊勢参りをした時に、やはり、こんなような鉢合せから始まって、宇治山田の米友という珍物を掘り出したのは、この先生の手柄であります。
「そーら見ろ、悪いいたずらをすると罰が当るぞよ、世界の立て直しだぞよ」
と言いながら、虫の息で倒れている人の傍へ寄って見て、
「やア、やられたな、右の肩先をバラリズンとやられたな、手傷を押えて、フラリフラリとここまで、やって来たところを、拙者と鉢合せをしたために手傷が裂けて、こうなったのはまことにお気の毒だ、まあ待ち給え、拙者がお手のもので、ひとつ手当をして進ぜるから」
道庵は手負《ておい》を抱《いだ》き起して、一方には自分の羽織を脱いで、その肩先の創口《きずぐち》をしっかりと捲き、血留めをしておいて、さて応急の手当を試みようとしたけれど、遺憾ながら、それはもう手後れでありました。打倒れた途端に、斬られた右の肩先から、ほとんど全身の血を土に飲ませてしまい、道庵先生の羽織一枚は、グチャグチャになってしまい、みるみる、そのさむらいの面《かお》は蝋のように変じて、道庵に抱えられながら、虫の息が、ついに断末魔の息となり、やがて眠るが如く縡切《ことき》れてしまいました。
ここで道庵が人を呼ぶか、どうかすればよかったのだが、この時分は、酔眼いよいよ朦朧《もうろう》として、意地にも我慢にも眠くなって堪らないようでした。斬られたさむらいの屍骸を抱え込んで、どう始末しようという当てがあるでもなく、朦朧たる酔眼を、幾度も幾度もみはって、
「扁鵲《へんじゃく》の言いけらく、よく死すべきものを活かすにあらず、よく活くべきものを活かしむるなり」
こんなことを言いながらも、多少は正気があると見えて、有らん限りの力を入れて、その死骸をせめて往来の片端へでも運んでやろうと、努力を試みているもののようです。しかしながら、それは蟻が一生懸命で生殺《なまごろ》しの虻《あぶ》に取りついているように、ズルズルと引張っては、またはなしてしまい、また引張っては離れ、離れては引張り、引張っているうちに自分の腰が砕け、砕けた腰がまた箝《はま》ると、揉手《もみで》をして取りつき、右が入って抱き込んだかと思うと、勝手が悪いと見えて捲き直してみたり、諸差《もろざ》しになったから、もうこっちのものと思っている途端に、また自分の腰がグタグタと砕けて、力負けをしてしまったり、本人は一生懸命のつもりだろうが外目《よそめ》で見れば、屍骸を玩具《おもちゃ》にして四十八手のうらおもてを稽古しているようで、見られたものではありません。
けれども、この独《ひと》り角力《ずもう》も、もうヘトヘトに疲れきって道庵は、屍骸の腋《わき》の下へ頭を突込んだかと思うと、やがてグウグウ鼾《いびき》を立てて寝込んでしまいました。
四
一方、駒井甚三郎は、船宿の表の戸に突き当った物音を聞くと、沈着な人に似合わず、立ち上って、それを諫止《かんし》しようとする寅吉に提灯をつけさせ、二階の梯子を下りて、表口の戸をあけて外へ出ました。戸をあけて一歩外へ出ると、紛《ぷん》として血の香いが鼻を撲《う》ちます。
甚三郎が提灯を突きつけて見ると、つい土台石の下にのめ[#「のめ」に傍点]っている一つの血腥《ちなまぐさ》い死骸があります。長い刀は一間ばかり前へ投げ出しているのに、左の手では手拭を当て、額をしっかりと押えて、その押えた手拭の下から血が滲《にじ》み出して面《おもて》を染めているから、その人相をさえしかと認めることはできないが、まさしく相当のさむらいであります。
駒井甚三郎は、傍へ差寄って検《しら》べて見ると、すーっと額《ひたい》から眉間《みけん》まで一太刀に引かれて、あっと言いながら、それを片手で押えて夢中になって、ここまで、よろめいて来たものと見えます。よろめいて来て、人の家の戸口と知って、刀を抛《ほう》り出して、その手で戸を二つ三つ叩いたのが最後で、ここに打倒れて、そのままになったものに相違ないと思われます。
もはや、どうしようにも手当の余地はないと見た駒井甚三郎は、関《かかわ》り合《あ》いを怖れてそのまま戸を閉じて引込むかと思うと、そうでなく、提灯を持って、スタスタと柳橋の方へ進んで行きました。寅吉も、駒井が出て行くのに自分も隠れていられないから、甚三郎のあとを追お
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