ものか、先生の気が忽《たちま》ち大きくなりました。
「ナ、ナニ、斬合いだ、斬合いがどうしたんだ、ばかにしてやがら、斬合いなんぞにおどっか[#「おどっか」に傍点]する道庵とは道庵が違うんだ」
「先生、いけませんよ、そんなことを言ったって駄目ですよ、さむれえ[#「さむれえ」に傍点]が三人で斬り合ってるんだ、早く、こっちへ来て、路次へ隠れておいでなさい。駄目だよ、駄目だよ、そっちへおいでなすっちゃ駄目だというのに」
「憚《はばか》りながら、どこへ出たって押しも押されもしねえ道庵だ、腕くらべなら持って来てみな、そう申しちゃなんだが、人を殺すことにかけては、当時、道庵の右に出でる者は無え……道庵が長者町へ巣を食って以来《このかた》、道庵の匙《さじ》にかかって命を落した者が二千人からある」
「困っちまうな先生、そんなことを言っている場合じゃありませんぜ」
せっかくの親切を無にして道庵先生は、フラリフラリと第六天の前へさしかかりました。
そうすると第六天の鳥居の蔭に、一団《ひとかたまり》になって息を殺している人影が、通りかかる道庵を認めて声を立てないで、手を上げてしきりに招くのが道庵の眼に留ったから、道庵もひょいとそちらを向きました。その時に一団の中から、いきなり飛び出して来た一人の男が、いきなり道庵の手首を取って、だまって鳥居の方へ引きずって行こうとします。道庵はその手を振り切ろうとしたが、なにぶん腰が据わらないので、思うようにならないところを、男はまた一生懸命で、道庵を引張り込もうとします。そうなると道庵は面白半分に、駄々を捏《こ》ねる気になって、足をバタバタさせながら、行かじとします。けれども、道庵を引張りに来た男は、たしかに一生懸命で、これもやはり地廻りの一人でありましょう、道庵をそれと知ったもんだから、自分も怖い中から飛び出して来て、何も知らない道庵のために、行手の危険を防いでやろうとする親切であります。
それも口を利くとあぶないから、黙って遮二無二《しゃにむに》、道庵を引張り込もうとするが、道庵はいま言う通り、ワザと足をバタバタさせて、駄々を捏ねるのだから始末におえません。親切に引張り込もうとした男は、いよいよ焦《あせ》って力の限り引張ると、道庵はまた、いよいよ面白がって、
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「なにがしは平家の侍、悪七兵衛景清《あくしちびょうえかげきよ》と、名のりかけ、名のりかけ、手取りにせんと追うて行く……三保谷《みほのや》が着たりける、兜《かぶと》の錣《しころ》を取りはずし、取りはずし、二三度逃げのびたれども、思う敵なれば遁《のが》さじと、飛びかかり兜をおっとり、えいやと引くほどに……」
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面白がって道庵は「景清」の謡《うたい》をおっぱじめました。
「先生、謡どころじゃありません、やってますぜ、やってますぜ、斬合いが始まってるんだから、早くこっちへ逃げておいでなさいまし」
ようやく小さな声で、これだけのことを言って、最後の力で引張り込もうとしたが、この場合において三保谷の方が、役者が一枚上であったから始末にゆきません。腕から辷《すべ》って羽織の裾に取りつき、錣引《しころび》きが草摺引《くさずりび》きになったけれども、このたびの朝比奈もまた、あまりに意気地のない朝比奈で、五郎|時致《ときむね》は、またあんまりふざけ[#「ふざけ」に傍点]過ぎた五郎時致でありました。
「先生、怪我があっても知りませんぜ、しっかりしなくっちゃいけません」
せっかく、飛び出した男が持て余している時に、柳橋の角から、星明りの闇夜《やみよ》に現われた人影が一つ、蹌々踉々《そうそうろうろう》として此方《こなた》に向いて歩いて来ます。その手にしている秋の尾花のような白刃が、星明りの闇にもきらめいて、足許のあぶないのは、たしかに重い手傷を負うているものと見られます。それと見た男は道庵を突き飛ばして、あわてて第六天の社内へ逃げ込みました。突き飛ばされた道庵は、あやうくそれを残して踏み直り、これも千鳥足。向うから歩いて来る千鳥足と、こちらから歩いて行く千鳥足とは、同じ足許があぶないながら、たしかに性質が違います。その辺にいっこう御夢中な道庵先生の危ないこと。
暗いところで、よくわからないが、右の手に刀をぶらさげたままで、左の手を以て、右の肩の上をしっかりと押えて、真蒼《まっさお》な面《かお》をしてフラリフラリと歩いて来るのは、年の頃はまだ若い、袴を着けたさむらいであります。
出合頭《であいがしら》に、それとぶっつかった道庵は、
「やア、危ねえ!」
この時ひとたまりもなく、後ろへひっくり返ってしまいました。けれども、それは、一刀の下にきりふせられたのではありません。鉢合せをして打倒《ぶったお》れたまでのことで、道庵が痛
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