屹《きっ》と見上げました。
 この深夜に、長い抜刀《ぬきみ》を片手にかざしながら、橋上にただ一人で突っ立っている光景は、舟の中から見ても穏かなる振舞とは見えません――それで、手を休めて、橋上の人のなさん様を眼も離さず見ていたが、この小舟の中には、この船夫一人ではありません。他に一人の客があって、その客人もまた、船夫と同じような怪しみと熱心とを以て、橋上の人を見つめているのであります。
 それがために、せっかく、河岸へ着けようとした舟は河岸へ着かず、神田川を出でて大川に合せんとするところの波に揉まれて漂うています。この怪しい舟の船夫《せんどう》というのは小柄な男で、一人の乗客というのは頭巾を被《かぶ》った女のような姿の人。申すまでもなく、船夫はすなわち宇治山田の米友で、お客はとりも直さずお銀様でありました。
 こうして橋の上と下とでは、無言のままに睨み合いをしていました。駒井甚三郎は提灯の光で、その怪しの舟と、乗組の何者であるやを見極めようとしたけれども、提灯の光は充分にそこまで届きません。舟の中なる米友は、同じ提灯の光をたよりに橋上の人を見つめているけれど、提灯の光は朦朧《もうろう》として、思うようにその人の面影《おもかげ》をうつしてくれません。
 その時に駒井甚三郎は、ふと己《おの》れの後ろで人の足音を聞き咎《とが》めたから、橋下をのぞんでいた提灯を振向けました。つい、自分の後ろ十間とは隔たらないところに、またしても一個の人影があります。
 それは船大工の寅吉ではありません。寅吉とは全く違った両国広小路方面から歩いて来たものです。それも駒井のここにいることを認めて、なるべく忍び足で近づいて来たものと見えました。
「誰じゃ」
 この時は駒井甚三郎が、猶予なく言葉をかけました。
「そなたは誰じゃ」
 その返事は、まだ少年の声であるらしい。
「何用あって、この夜更けに」
 駒井は再び咎《とが》め立てすると、
「そなたこそ、何御用あってこの夜更けに」
 少年は甚三郎に反問して来ました。
「橋の上が騒がしい故に、出て見たところであるわい」
「橋の上を騒がしたのは、貴殿ではござらぬか」
 少年はジリジリと、二三歩進み寄ります。
「拙者ではない……見受けるところ、そなたはまだ少年のようじゃ、橋の上が騒がしいと知って、一人でここまで来られたか、それともつれがあって来られたか」
 駒井甚三郎は提灯を高くして、その少年の姿を見ようとしたけれど、やはり充分に光が届かないのが残念です。
「いかにも、私には三人の連れの者がありました、途中においてその者の姿を見失いたるが故に心許《こころもと》なく、これまで追いかけて参りました」
「おおその三人は……ここに斬られている、多分、これらの人たちがそれではないか」
「ええ?」
 離れている少年は、その時に、つつと橋板の方まで馳《は》せ寄って来ました。しかしながら、刀の鯉口は切って、寧《むし》ろ、駒井甚三郎を斬らんとして飛びかかって来るもののようです。駒井は提灯を楯《たて》に、その鋭鋒を避けんとするものであるかの如く見えます。
「その斬られた人々は、いずれにござります」
「これへおいであれ」
 甚三郎は自身、橋の上へ引返して案内しようとする。それと並び寄るかのように少年は、刀の柄《つか》に手をかけて、
「貴殿はそもそも、いずれのお方でござる」
 こう言って詰問の体《てい》であります。返答の出ようによっては、たちどころに斬ってかかろうとする事の体でありました。駒井甚三郎は提灯をかざして、やはり、その少年の鋭鋒を避けるようにしながら、
「拙者はこの附近に住居《すまい》致す者でござるが、そういう御身は、いずれよりおいでなされた」
 そこで、提灯の間に、二人の面《かお》が合いました。いずれも覆面はしておりません。微《かす》かながら提灯の光は、二人の面差《おもざし》を映し出すに充分でありました。
「おお、其許様《そこもとさま》は駒井能登守殿ではござりませぬか」
 少年は、驚き呆《あき》れた音声です。
「宇津木君ではないか」
 駒井甚三郎もまた呆れ面《がお》です。この少年は宇津木兵馬でありました。駒井甚三郎と宇津木兵馬との会見は、滝の川の西洋火薬製造所以来のことでありました。
 二人はまた意外のところで、意外の奇遇を喜びました。兵馬の語るところによれば、兵馬は、ついこの川向うの相生町の老女の家にいて、今夜は同宿の三人のさむらいを尋ねて、このところまで来たということであります。
 その三人の同宿というのは、某藩の士分の者であるが、近頃、老女の家に寄寓して、番町の斎藤の道場へ通っておりました。しかるにこの三人が、どうも辻斬がしたくてたまらない様子が見える。近頃しきりに両国橋あたりに辻斬があるとの噂《うわさ》を聞いて、どうも腕が
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