己《おの》れを発見しました。
 行手を急ぎながらも、心にかかるのは今宵の宿です。昨夕《ゆうべ》は板橋の宿にホッと仮寝の息を休めたけれども、今宵の宿が覚束《おぼつか》ない。どこまで行って、どこへこの女を泊めていいか、それが心にかかる。
 まもなく、一つのやや大きな宿駅を通りかかりました。
「ここはどこだ」
 たずねてみると、
「八王子の宿《しゅく》でございます」
 返事をするものがあったから、不思議に思いました。板橋は中仙道の親宿。八王子は、それとは、方面を変えた甲州街道の一駅であります。昨夜、板橋を出ていつのまに八王子へ来てしまったろうと、訝《いぶか》しさに堪えられません。しかしながら駕籠はいよいよ急ぎます。暫くして行手に山岳の重畳《ちょうじょう》するのを認めました。
「あれは?」
と尋ねると、
「小仏峠《こぼとけとうげ》でございます」
 果して甲州街道へ来てしまった。しかし、よく考えてみると甲州街道へ来るのがその目的であったようです。
 雲の棚曳《たなび》いている小仏峠の下を見ると、道の両側に宿場の形をなした人家があります。両側の家の前には、水のきれいな小流れが、ちょろちょろと走っています。
「ここは?」
「浅川宿でございます」
と答えた途端に、急いでいた駕籠がピタと止まりました。
 駕籠の止まったところを見ると、この宿場としては目立って大きな一軒の旅籠屋《はたごや》の軒下であります。それは昨夜と同じように、表の戸はすっかり締めきってあるのに、掛行燈だけが、かんかんと明るく、昨夕「若葉屋」と書いてあったところに、今宵は「こなや」と仮名文字《かなもじ》で記されてありました。
 駕籠《かご》はと見れば軒下に置放しにされて、駕籠屋は影も形も見えません。
 そこで竜之助は、その家の戸をハタハタと叩きました。
「どなたでございます」
 中から返事がありました。
「浅川宿のこなやというのは当家か」
 竜之助は念を押してたずねると、
「いいえ、宅はこなやではございません、花屋でございます」
という二度目の返事です。
 そこで竜之助が、はて、と思いました。表の掛行燈にはまさしく「こなや」と書いてあるのに、中の人は「こなや」ではない、「はなや」だという。行燈を見直して、更にたずね直してみなければなりません。
「ここは甲州街道の浅川宿であろうな」
「はい、小仏へ二里、八王子へ二里半の、浅川宿の小名路《こなじ》でございます」
「それならば、行燈に書いてあるこなや[#「こなや」に傍点]が間違いないのだろう」
「いいえ、こなや[#「こなや」に傍点]ではございません、小名路の花屋でございます。いったい、どちらからおいでになりました」
「江戸の駒込から来た」
「駒込はどちら様で」
「以前、当家の養女であったという、お若という人を連れて来た」
「まあ、お若さんがおいでなすったそうですよ」
 家の中が、さざめき渡りました。そこで、はじめて中から戸がガラリとあくと、立っている女は透きとおるほど鮮《あざや》かな着物を着ています。
「よく、おいでになりました、さきから、こうして、明りだけは、かんかんと点《つ》けてお待ち申しておりました、あまり遅いものですから、戸だけは締めておきましたが、まだみんな起きているのでございます、さあ、お通り下さいませ」
 案内をしてくれたその女は、また見覚えのある女であります。振返って見ると、そこに置き据えられた駕籠は、もうありません。
 案内された座敷は、昨夜と違って明るい座敷でありました。朱塗りの雪洞《ぼんぼり》が、いくつも点いて、勾欄《こうらん》つきの縁側まで見えているが、その広い座敷に誰一人もおりません。家内の者はまだ起きていると言ったにかかわらず、入って見れば、ひっそりとして人の気配は更にありません。
 ここへ案内をしてくれた女の人は、燈籠《とうろう》の下へ、ぴたりと坐ると、あちらを向いて頻《しき》りに物を書きはじめました。昨夕の女は、旅の客の疲れも知らず面《がお》に仕事をしていたが、今宵はまたお客をさしおいて、あちら向きで物を書いているのは、よほどさし迫った用向に違いない。いかに差迫った手紙とは言いながら、お客をそっちのけにして、あんまり無作法だと思いましたから、
「何を書くのか知らないが、手紙は後廻しにしておいたらどうだ」
 苦々《にがにが》しく言い放ったけれども、あちらを向いていた女は向き直ろうともしません。女の書いている巻紙だけが、するすると竜之助の見ている方へ流れて来るのです。雨漏《あまも》りの水が板の間を伝って流れて来るように、紙が眼の前を流れて行くから、いったい、何をそれほど熱心に書いているのだろうと、のぞいて見ると、
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花は散りても
春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
往きて帰らぬ
死出の旅

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