感じのするほどに古びた座敷でありました。その中に行燈が一つ、座敷の広いのにしては、あまりに光が暗いと思いました。光が暗いから、それで、部屋がいっそう陰気に見えるのではないかと思われます。
 案内されるままにこの座敷へ通ったけれども、竜之助の心は解けているのではありません。
 戸を締め切って、行燈だけを点け放しておいたことの理由は、ただいまの女の言葉によって、よくわかったけれども、何故にこの女から、こうまでして自分が待たれるのだか、それはわかりません。また何の由あって、これほどに懐しく、自分をこの女が、旅の宿で待っていてくれるのだか、それもわかりません。
 竜之助が、不審に堪えやらぬ面《かお》をして、座敷に通っていると、女はその暗い行燈の下へ坐って、そこで仕事をはじめました。
 なるほど、仕事をしながら、今まで待ち明かしたという心持が、嘘とは思われません。
 それにしても、自分は旅の身である。ここはいずれの宿《しゅく》か知れないが、旅籠屋《はたごや》には違いない。旅籠屋とすれば、この女は宿のおかみさんか、そうでなければ女中であろう。こうして着いた上からは、とりあえず風呂のかげんを見てくれるか、食事の世話をしてくれるのがあたりまえであろうのに、それらのことは頓着なしに仕事をはじめている。竜之助はそれを憮然《ぶぜん》としてながめていたが、
「それは誰の着物だ」
と言って尋ねてみました。
「誰のといって、あなたわかっているじゃありませんか」
「拙者にはわからない」
「これ、ごらんなさいまし、郁太郎の着物でございますよ」
「え、郁太郎の?」
 愕然《がくぜん》として暗い行燈《あんどん》の下を見ると、女は縫糸の一端を糸切歯で噛みながら、竜之助の面《おもて》を流し目に見て笑っています。暗い行燈が、いよいよ暗く、広い座敷が、あんまり広過ぎる。
「おわかりになりましたでしょう」
 竜之助は、座右に置いた武蔵太郎の一刀を引寄せました。暗い行燈の下を、瞬《またた》きもせず見つめました。
 明《めい》を失うてから久しいこと、切れの長い眼の底に真珠のような光を沈めて、甲源一刀流の名代《なだい》の、例の音無しに構えて、じっと相手を見据えて、毛骨《もうこつ》みな寒い、その眼の色の冴《さ》えを見ることがありませんでした。
「お前は浜だな」
「ええ、左様でございます、あなたとお別れしてから、ずいぶん久しいことになりましたね、今日は、あなたがおいでになるということですから、こうして待っておりました。あなたが恋しいのではございません、郁太郎がかわいそうですからね。だんだん寒くなってゆくのに、あの子は、綿の入った着物一つ着られまいかと思うと、それが心配で、眠れません、どうぞ、あなた、これを郁太郎に持って行って上げてくださいまし。あなたとの間のことなんぞは、どうでもよいではございませんか、恨みを言えばおたがいに際限がありませんからね。もう少しお待ち下さいまし、今、わたくしがこれを縫い上げてしまいますまで」
「うーん」

「もし、あなた、どうなさいました」
 前のは夢の声、これは現実の言葉であります。夢とうつつとの境はよくわかるけれども、女の声には変りがありません。してまた、竜之助の心では、現実の女と、夢の女とを、区別することができません。夢にうなされた自分を呼び起している女の声を、やはり夢で見た同じ女とのみ思うよりほかはありません。
 板橋駅の、とある旅籠屋の一室に、夢に見たと同じような行燈の下に縫物をしているのは、どこやらに婀娜《あだ》なところのある女房風の女でありました。けれどもその縫っているのは、郁太郎の着物ではありません。乱れた髪かたちを直してから、自分の着物の綻《ほころ》びを繕《つくろ》っているものらしい。
 夢にうなされた人の声に驚いた女の人は、針の手を止めて暗い行燈の光で、うなされている人の面《おもて》をさしのぞくと、
「まだ起きておられたのか」
 夢から醒《さ》めて、かえって現実の人の醒めているのを不思議がるようです。
「はい、まだ起きてお仕事をしておりました」
 女の返事は、まことに、しとやかな返事であります。
「こんな夜更けまで、誰の着物を縫っているのだ」
「いいえ、誰の着物でもございませぬ」
と言いながら、女は再び針の手を運ばせて、
「たいそう夢に、うなされておいでのようでございました」
「ああ、妙な夢を見た」
「怖い夢でございましたか」
「怖いというほどの夢でもないが、見ている間は夢とうつつがよくわからなかったが、醒めてみると、やっぱり夢の通りだ」
 竜之助の言うことは、まだ夢とうつつの境に彷徨《さまよ》うているもののようです。

 再び夢路に迷い込んだ机竜之助は、またも旅中の人であります。行手を急ぐ一挺の駕籠に附添うて、いずこともなく走り行く
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