ろどろした呻きの声であります。
それを篤《とく》と聞き定めた弁信は、消えた提灯を片手に、飛鳥の如く走り出しました。不思議となにものにも躓《つまず》くことなく、声のしたところへ一足飛びに走って来て、
「もし、先生、そこにおいでになりましたか。女のお方も、そこにおいでなさいますね。なんにしても、お怪我が無くてよろしうございました。けれども、あの足音をお聞きなさい、あの人の声をお聞きなさい、大勢の人がまた尋ねに参ります、今度つれて行かれたら、もう助かりませぬ、早くお逃げなさい。先生、わたくしのことは御心配にはなりませぬよう、あなた様は早く、その女のお方を連れてお逃げ下さいまし、先生がお逃げにならなければ危のうございます、早くこの場をお逃げなさいまし。あの通り人の足音と声とが近寄って参りました、お聞きなさいまし」
十六
弁信から逃げろと言われたことが、竜之助にとって思い設けぬ暗示となりました。女もまた、そう言われて、一にも二にもこの人を頼る気になったらしい。
頼ってみるとその人は、意外にも盲目《めくら》の人でありました。強いと思った人は、人並より弱味を備えた人であったことを知った時に、女はその恐怖から解放された心持になりました。この人は怖るべき人ではなく、憐れむべき人である。
女の心が男に向う時、その男が己《おの》れを托するに足りるほどに強い男であることを知った時には、信頼となり、或いは恋愛に変ずることもあります。それと違って、男が弱くして、自分がそれを世話をしてやるという立場に立った時は、女はまたその女らしい自負心が芽を出して、男を愛慕する心も起るものであります。
この不思議な遭逢《そうほう》の二人の男女は、どちらが頼り、どちらが頼られるとも知らずに、その場をおちのびました。けれども、道案内はまさしく女のしたことで、竜之助は万事をその女の導くままに任せたのでしょう。かくて、板橋の宿の、とある旅籠屋《はたごや》にたどりついて、そこで一夜の泊りを求めることとなりました。
多少の疲労とそれから、このごろとしては久しぶりで人を斬った竜之助は、女がまだ起きているうちに、すやすやと夢に入ってしまいました。
いつしか、自分は、振りわけの荷物を揺りかたげて、東海道を上って行った時の旅の姿になっている。ところは鈴鹿峠の下あたりで、その前を一挺の早駕籠が威勢よく駈けて通る。
なんにしても、夥《おびただ》しい急ぎ方だと思いました。
「その駕籠はどこへ行くのだ」
尋ねてみたけれど、駕籠屋は振返っても見ません。
しかしながら、どうも見たような駕籠である。竜之助は駕籠に引添うて走りはじめました。まもなく駕籠は或る家の軒下へ立ちました。そこは、ちょっとした宿場|外《はず》れの、木賃宿《きちんやど》とも思われるほどの宿屋の軒下であります。
これも見たことのあるような行燈《あんどん》がかかっている。筆太に「若葉屋」と記して、側面には二行に「千客万来」と認《したた》めてあるのを明らかに読むことができるのであります。
駕籠は、その掛行燈の下に据《す》えつけられると共に、駕籠屋共は、いずれへ行ってしまったか、影も形も見えません。
竜之助はぜひなく、その宿屋の雨戸をハタハタと叩きました。行燈は、まだまばゆいほどに点《つ》けておくのに、雨戸は、もう一寸の隙間もなく締めきって、叩いてみても、返事もありません。
「お連れさんは?」
当惑して立ちつくしていることやや暫く、すると中から声がありました。
「連れは女だ」
と竜之助は答えました。
「どうぞ、お通り下さいませ、お待ち申しておりました」
雨戸の枢《くるる》を外すのも、やはり女の声でありました。
そこで、やれ一安心という気になって、戸の前に置き据えられた駕籠を振返って見ると、そこにはありません。
「オホホ、もう先廻りをしてここにお待ち申しておりました」
戸をあけて微笑《ほほえ》んでいる女の面《おもて》が、見覚えのある面《かお》であります。
「おお、お前はいつのまに――」
さすがの竜之助も、あっけに取られて、その女の面をながめました。まさしく見覚えのある女には違いないけれども、さて、誰を誰と言っていいかわかりません。
「ずいぶん長いことお待ち致しました、もうおいでになるだろう、なるだろうと思いまして、こうしてお仕事をしてお待ち申していましたけれど、いくらお待ち申してもおいでがありませんから、戸を締めました、それでももしやと気にかかるものでございますから、ああして行燈だけは、夜明し点《つ》けておくことに致しました」
何者とも見当のつかない女は、こう言いながら、懐《なつか》しそうに竜之助の手を取って、広い座敷へ案内しました。
その座敷はかなり広いけれども、なんとなく陰気な
前へ
次へ
全56ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング