、その辺にどなたかおいでになりますな、どなた様でございます」
弁信はこの時、例によって聞き耳を立てました。その実、誰も言葉をかけた者もなければ、物音を立てた者もありません。弁信は杖を取り直して、提灯を持ち換えながら誰かに向って、こんなことを呼びかけて立ち止まり、
「ちょっとお断わりを申し上げておきます、わたくしはこれから本所まで行って参りたいものだと存じます。あれから暫く御無沙汰を致しました法恩寺の長屋へ参りまして、皆様に御挨拶を申し上げて来たいと存じまして、これから出かけるところでございます。長屋の衆は、さだめて、わたくしがあれから一度も便りを致しませんものでございますから、死んだものと思っていることでございましょう。かねて、わたくしは左様に申し残しておいたのでございます、こういう身の上でございますから、いつ、どうして、どんなところで間違いが起るか知れませんから、もし、二日も三日もわたくしが帰りませんでしたら、死んだものとお諦め下さいまし、決して、お忙しいところをお探し下さるような御心配をなすっていただいては困ります、と、こう申しておいたものでございますから、多分、長屋の衆も、弁信は死んだものと思っておいでなさるだろうと思います。それでも、こうして無事でいるのでございますから、一応は御挨拶に上らねばならぬとは思っておりましたけれど、こちら様で御懇意になったお方の不思議の御縁に引かされて、今日までこうして御厄介になっておりました、今日から以後も、ことによると、また長く御厄介になりに上るようになるかも知れません、法恩寺の方を引払って、こちら様へ御厄介になるようなことになりますれば、またお屋敷の皆々様にも改めて御挨拶を申し上げ、おわびも申し上げたいと存じております。それで今晩は、これから本所まで、こつこつと歩いて行きたいと存じます。幸い、こちら様が、やはり本所の弥勒寺長屋までおいでになる御用がおありなさるとこうおっしゃるものでございますから、お連れを願いましたのでございます。今晩は二人ともに、あちらへ泊りまして、帰りもなるべくは御一緒に願いたいと存じますが、多分そうは参りますまいかとのお話でございます。わたくしだけは明晩は必ずこちら様へ帰って参りまして、改めて御挨拶を申し上げるつもりでございますから、どうぞ御無礼をお許し下さいまし。ええ、この提灯でございますか。なるほど、盲目が提灯を持っては物笑いと思召《おぼしめ》すでございましょうが、何の意味もあるのじゃございません、わたくしどものために提灯をつけて歩くのではございません、彼方《むこう》からいらっしゃる方が、突き当るとお困りなさるだろうと思いまして、これを持って参ります、御新造様がお倉の中からこれを探して、わたくしに持たせて下さいました」
例によって盲法師の弁信は、誰に問われもしないのに、ベラベラとこんなことを喋りました。二人の盲人は、こうして徐々《しずしず》と屋敷を出て行きました。
福村をはじめ御家人崩れの連中は、それを見ながらどうすることもできません。
二人の行こうとする目あては、多分ただいま弁信が名乗った通りであろうけれど、その歩み行く道筋の光景は更にわかりません。武蔵野の尽くるところには、林もあり、森もあり、畑もあり、江戸の郊外が始まろうとするところには、屋敷もあり、人家もあり、火の見の半鐘もあろうというものだが、二人はただ黒暗々《こくあんあん》の闇を歩いて行くだけです。お喋りの弁信も、どうしたものか、あれっきり沈黙してしまいました。
染井から本所へ行こうとするのは、この二人にとってはかなりの夜道です。もし、きながに歩いて行ったら、夜が明けるかも知れません。急いで行ったところでこの二人は、とても近道を取るというわけにはゆきますまい。あぶなければ途中で、駕籠でも雇うまでのことです。
巣鴨の庚申塚《こうしんづか》あたりへ来たと覚しい頃、急に人声が噪《さわ》がしくなりました。庚申塚へ廻るのは、少し廻り道すぎると思われるけれども、化物屋敷の連中は、江戸の市中へ出るのに好んであちらの方を廻りたがります。二人もまた期せずして、そちらへ廻ったけれども、そのあたりは、いつも寥々《りょうりょう》たる広野の心持のするところです。しかるに今宵は、その辺で人声が噪がしい。
こういう時に、弁信法師は何事を措《お》いてもヒタと歩みをとどめて、仔細らしく小首を傾《かし》げて、その物音の因《よ》って起るところを、じっと聞き定めようとするのがその例です。今もまた、その例に洩るることがありません。
「大層、騒がしいようでございますね」
と言ってたちどまりました。その声は往来で起るのではありません。往来を少し引込んだところの原の中で起る、騒々しい声であります。
「喧嘩でも始まったのかな」
と竜之
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