れだけの傷を負わせられたことは、自分の不覚である。と同時に、どう考えても相手の腕の冴《さ》えを認めないわけにはゆかないことです。そこで兵馬は、かの天蓋の男が只者《ただもの》でないということを考えました。ただそれだけを考えたけれど、混乱した頭脳《あたま》のために、空想はあらぬ方へ持って行かれてしまいます。
 兵馬は最初から、吉原へ飛ぶつもりでいました。今となっては、それがあまりに恥かしくてたまらぬことです。そうかといって、本所の相生町の老女の家へ帰って、誰に面《かお》を合せよう。

         十五

 神尾主膳は眉間《みけん》に怪我したために、病床に呻《うな》って寝ています。
 なぜか、主膳は医者を呼ぶことを嫌います。これほどの怪我をして呻りながら、ついに一言医者ということを言いません。医者を迎えようという者があれば、厳しくそれを叱りつけて、寄って集《たか》ってする手療治に任せているのは、一方から言えばこの男の剛情我慢で、一方から言えば、己《おの》れの屋敷へ他人の出入りを許さぬ内部の弱味かも知れません。
 うなり通しにうなって、その合間に、
「坊主を呼べ、あのお喋り坊主は癪にさわる小坊主だ、戸惑いをした売卜者《うらないしゃ》のようなよまいごとを喋るのが癇《かん》に触ってたまらん、あれをここへ連れて来て、眼の前で締め殺してくれ、こうして寝ていても、あいつの姿が目ざわりになり、あいつの言い草が耳ざわりになってたまらん」
 主膳は噛んで吐き出すように、こう言って罵《ののし》ります。
「大将、あの小坊主は井戸へ落っこってお陀仏ですぜ、死んでしまいましたぜ」
 福村が、言いくるめようとすると、主膳は承知しません。
「なあに、死んでしまうものか、あいつは生きて土蔵の中に助けられているのだ、誰か、あの小坊主をここへつれて来て、拙者の眼の前で締め殺してくれ、それでないと拙者の怪我は癒らん」
 福村は、当惑しながら、
「冗談じゃねえ、坊主は、疾《と》うに井戸の底に往生しているんだ、小坊主の死霊《しりょう》に悩まされるなんて、大将にも似合わねえ」
 それでも主膳は承知しません。どこまでも小坊主が助けられて、土蔵の中にいるものと思い込んで、彼をそこへ引いて来て締め殺せ、締め殺せと繰返すその有様は、あの小坊主の生命を眼の前で断たなければ、自分の命が危ないものと思い込んでいるようです。もてあました看護の連中とても、敢《あえ》て弁信を憐んで主膳の前を言いこしらえるのではないから、ついに主膳のむずかり[#「むずかり」に傍点]に我慢がしきれなくなって、
「どうだ、大将がすっかりかんづいているんだから、坊主を一つここへ引張って来ようじゃねえか。といって、土蔵はこっちの鬼門だから、あの中へ引取られた上は、おいそれとは渡してよこすまいが、なんとか口実をこしらえて引取って来ようじゃねえか、そうもしなけりゃとても、看病人がやりきれねえ」
 ついに彼等は相談して土蔵へ、小坊主引取り方を交渉に出かけることになりました。福村が先に立って、御家人崩《ごけにんくず》れが都合三人で、その晩、土蔵の前までやって来たが、彼等にも、この土蔵の中が気味が悪い。美しい腰元のお化けが怖いのではなく、現にこの中に籠《こも》っている幾つかの怪物は、同じ屋敷中にあっても、彼等にとっては治外法権の怪物であります。
 土蔵の前まで来るには来たが、彼等は急には訪れようとはしないで、まずこちらに立って中の様子をうかがっておりましたけれど、中には物音が一つするではありません。どちらも真暗で、土蔵の二階の金網の窓から、燈火《ともしび》の光が青く洩れているばかりです。
 そのうちに土蔵の戸がガタピシとあいて、中から人が現われました。様子を見ていた連中は物蔭に隠れていると、中から現われたのはまず盲法師の弁信です。今宵は笠もかぶらず、例の法然頭を振り立てて出て来ました。ただおかしいのは、手に九曜巴《くようともえ》の紋のついた、かなり古びた提灯を点《とも》して持って出たことです。それが倉から出て戸前を二三歩あるくと、そのあとから出て来たのは竜之助です。これは頭巾《ずきん》を被《かぶ》って、両刀を帯びて、竹の杖を持っていました。
 竜之助が出ると、倉の戸前を引き立ててしまったから、多分、今宵も倉の中では、お銀様一人が留守居をするのでしょう。そうして出かけた二人は、今宵は尺八を持っていないのだから、彼等は別に目的があって出歩くものに違いありません。ただ、わからないのはその提灯です。持って前に立つ人も盲目《めくら》です、あとについてたよりにする人もまた盲目です。盲目が盲目の手引をするのに、持つ人も持たれる提灯も変なものです。それと板倉家の定紋である九曜巴を、弁信が提げ出したことも何の意味だかよくわかりません。
「エエ
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