ょうかね、宗門の方から申しますと、『骨肉同胞たりと雖も、山門に入るを許さず』という、卯《う》の毛《け》も入れない厳しいところに情けがあるんだそうでございます、また世間普通の人情から申しますと、楽翁公のなされたように融通をつけるのが道理だと申すものもございます。あなたはどちらがよいとお考えになりますか」
 兵馬が見ると、月を背にして歩んで来る二個《ふたつ》の人影があります。前のは背の低い網代笠《あじろがさ》をいただいた小坊主と覚しく、後ろのは天蓋《てんがい》をかぶって、着物は普通の俗体をしている男のようです。
 この二人がそこまで来た時に、お喋《しゃべ》り坊主が遽《にわ》かに突立ってしまいました。
「もし、そこにどなたかおいでになりますようですが、どなたでございます」
 こう言って見咎《みとが》めたのは無理もないと、兵馬も思いました。
 行き暮れて、こんなところに、ただ一人、物案じ顔に休んでいるのを、通りかかった者が見ればギョッとするのも無理はない。兵馬はそこで、とりあえず返事をしました、
「ごらんの通り、このあたりで少々道に迷いました」
「左様でございましたか」
 それでも小坊主は動いて来ませんでした。そして突立ったなりで暫く耳を傾けて、
「まだ、お若い方のようでございますな、どちらへおいでになろうとおっしゃるのでございます」
「浅草の方へ出たいと思います」
「浅草へ? それは飛んだ方角違いでございます、と申し上げたところで、私も実は浅草へ参る道は存じませんのでございますが、そちらへおいでになっては違います、今、ちょうど、お月様が上ったようでございますからね、そのお月様の上った方へと歩いておいでなさいまし、そう致しますと、ほどなく人家がございます、人家についてよくお聞きなさいまし、なんでも、お月様のお上りになった方へとおいでになれば間違いはございません」
 お喋り坊主は親切にこう言って、道案内をして聞かせましたけれど、やっぱり歩いては来ないでそこに突立っています。
「有難うござる、それでは、あの月をめあてに尋ねて参りましょう。して、この辺は何というところでござろうな」
 兵馬は立ち上りながら、こう言って尋ねてみると、お喋り坊主が、
「何というところでございますか、私共にもわからないのでございますが、ずっと参りますると染井から伝中《でんちゅう》の方へ出ますんでございます、もっとも浅草へ参りまするには、染井、伝中へ出ては損でございますから、その辺に、ずっと左へ切れる道がございましょうと存じます、それを尋ねておいであそばすがよろしうございます、多分、巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところあたりへ出る道があるだろうと存じますが、私共はごらんの通り眼が不自由なものでございますから……」
 なるほど、どうも様子が訝《おか》しいと思ったら、盲人であったか、道理こそさいぜんから口だけ親切で、身体に気を許さないのがわかった。そこで兵馬はお喋り坊主に会釈《えしゃく》をしながら、その傍を通り抜けると、それと離るること三間ばかりのところに、天蓋をかかげて月を見ている人があります。
 多分、月を観ているのだろうと兵馬は思いながら、その人の側を、ずっと摺り抜けて通りました。通り抜ける途端に、風を切って何物かが落ちて来ると覚えたから兵馬は、ひらりと身をかわしたけれども、口惜《くや》しいことに、かわしきれませんでした。右の肩を打たれようとしたのを、肩を開いたために、それが落ちて来て、刀の柄《つか》にのせていた手の甲を辷《すべ》って、右の小指を発止《はっし》と打砕きました。
「痛ッ!」
 兵馬は道の側《わき》へ飛び退いて身構えて見れば、月をながめて突立っていた天蓋の人が、手に持っていた尺八を振り上げて、通り抜ける兵馬を音もなく打ち込んで来たものです。
 稀代《きだい》の乱暴かなと思いました。よし、それが刃でなくて尺八であったとは言いながら、これ抜打ちの辻斬とあいえらばぬ仕方です。この上もなき無礼、この上もなき狼藉です。この場合でなかったら兵馬と雖《いえど》も、その分には済まされぬところを、兵馬は怺《こら》えました。砕かれた小指を握りながら、月に立っている天蓋の怪しの男の姿をながめながら、兵馬は取合わずに別れて行きました。
 指の痛みを堪忍《かんにん》して、宇津木兵馬はその場を立去りましたけれども、かの天蓋の怪しい男を、単純な乱暴人とのみ見るわけにはゆきません。況《いわ》んや狂人の振舞ではありません。
 相手の右へ向って摺り抜けるということが、作法の上から間違っていて、それがために彼の怒りを買ったものと見れば、過《あやま》ちはやはり自分にある。そこで兵馬は多少悔ゆるの心を起すと共に、心外なのはこの指の痛みです。
 かりそめに振り上げた尺八のために、ともかくもこ
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