は窮することなき武蔵野の枯野の末です。
とある森の蔭に立って、兵馬は天を仰いで見ました。その宵はまだ星もありません。このあたりには人家も見えません。たしかに道を過《あやま》ったものと思いました。よろよろと自分を支える力を失うが如く、大きな木の根に腰を卸して、ほっと深い息をついて俛首《うなだ》れてしまいました。
兵馬はまさしく道を過ったものです。その道は、行けども涯《はて》しのない武蔵野の道ではなく、自ら為すべきことの道を過ったものと見なければなりません。
四谷の大木戸で宰領を斬ったのは誰あろう、兵馬の仕業《しわざ》であります。それを山崎譲と見誤って斬ったのがオゾましい。兵馬には山崎譲を斬らねばならぬなんらの恨みがあるのではない、それは南条力に頼まれたからです。南条とても、山崎に私の怨みがあるわけでもなんでもない、彼は大事を成すの邪魔物であると思えばこそ、兵馬の手を借りて片附けさせようとしたものです。それはもちろん、頼まれたりとて承諾すべきことの限りではないのを、かくも兵馬が引受けて手を下すようになったのは、浅ましいことに女ゆえです。南条力の主義や主張に共鳴して、一臂《いっぴ》の力を貸すということであればまだ名分もあるが、事実は、どう言っても女のためであるのを争うことができません。
南条らの一味は、その以前から山崎が江戸へ出るということを探り知って、それを老女の家まで合図をしました。その合図によって兵馬は、大木戸あたりに待ち構えて、ついに物の見事に馬上の者を斬り捨てたけれども、それが物の見事に間違いであったということを覚ったのは、誰よりも斬った当人の兵馬が先です。隙《すき》があってもなくても山崎譲である、そう容易《たやす》く斬れるとは思っていなかったのに、案外なのはその馬上の人です。ほとんど藁人形を斬るよりも容易《たやす》く斬れてしまいました。たとえ無意味にしろ、山崎ならば斬って斬りばえもないではないが、馬に乗って世渡りをして、妻子を養ってゆくだけの男を斬ったところで何になる。それらの妻子や親族の者の歎きの程も思いやられる。斯様《かよう》な愚劣極まる殺生をするために、剣を学んだはずではなかった。いろいろと我が心に弁解を試みて、人を斬ることは何でもない、無用の人を斬るために、夜な夜な辻斬をして歩く者さえある、間違って人一匹|殺《あや》めたことぐらいは物の数ではないのだ、と兵馬は強いて自分の心を落着けようとしたけれど、世の中にこのくらいばかばかしい人殺しはないものと思われてなりません。そのばかばかしい人殺しを甘んじてやって来た、自分というものの馬鹿さかげんこそ底が知れない。ああ、どうして我ながらここまで本心を失うたものかと、それを思い来って無念に堪えられないで兵馬は、火のように燃え上る頭を抑えました。
こうして兵馬が燃えさかる頭を抑えている時に、どこからともなく短笛の響が起りました。眼をあげて見ると、いつしか月が東の空に出ています。
人の姿は見えないが、笛を弄《もてあそ》ぶ風流の人は、わざと月の上らないうちに、武蔵野の外を吹きめぐろうとするものらしい。この短笛の音色が兵馬の頭燃《ずねん》に、一陣の涼風を送らないという限りはありません。兵馬には、その人が何の心あって、何の曲を吹いて来るのだかそれはわかりませんが、その音は柔和にして濃《こま》やかな感情を含んでいる。なだらかにして夢幻《むげん》の境を辿《たど》るようである。一転すると悲壮沈痛にして、抑えがたき感慨が籠《こも》る。朦朧《もうろう》として春の宵の如きところから、寥々《りょうりょう》として秋の夜の月のように冴え渡って行く。
余音嫋々《よいんじょうじょう》としてその一曲が吹き終った時に、ようやく人の足音と話の声が聞え出しました。
「下総の、小金ケ原の、一月寺というのへ行ってごらんになると、今でもあの門前に石碑《いしぶみ》が立ってございます、わたくしには読めませんが、読んだ人の話によりますと『骨肉同胞たりと雖《いえど》も、案内人無くして入ることを許さず』と刻んであるそうでございます。一旦、あの寺へ入りました以上は、父母兄弟でも、案内人に許されなければ、面会ができないものとなっているのでございますが、それが昔は『骨肉同胞たりと雖も、山門に入るを許さず』とあったのだそうでございます。つまり、昔のは、父母兄弟でありましょうとも、案内人が有りましょうとも無かりましょうとも、いったん寺へ入ったものには面会を許さないという、宗門《しゅうもん》の掟《おきて》なのでございましたそうです。それを近頃になって白河楽翁《しらかわらくおう》さんというお大名が、それではあんまり酷《ひど》い、というので、案内人無くして入ることを許さず、と改めさせたのだそうでございます。これはどちらがよろしいでし
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