聞き流してしまったもので、尺八そのものの音色《ねいろ》には、どうかすると我を忘れることもあるのが、自分ながら不思議と言えば不思議であります。
 気のせいか知らん、このとき隣室に吹いている尺八の音色が、又なく微妙なものに響きます。吹く人の技《わざ》の拙《つたな》からぬことも、吹かれている尺八そのものの稀れなる名器であるらしいことも、竜之助は聞いて取ることができました。
 吹いている曲は、たしかに「恋慕《れんぼ》」と思われる。
 尺八を吹いているのは金伽羅童子《こんがらどうじ》で、歌をうたっているのが制多伽童子《せいたかどうじ》です。
 二人は双子《ふたご》でありました。もとはしかるべきさむらいの子であったとかいうことですが、みなし児になってこの家に引取られ、実の名もあるにはあるが、この楼《いえ》の者は二人を呼ぶに、金伽羅、制多伽の名を以てして、その実の名を呼ぶ者がありません。
 かつて素人芝居《しろうとしばい》があった時、この楼の主人が文覚勧進帳《もんがくかんじんちょう》の不動明王に扮《ふん》して、二人がその脇侍《きょうじ》の二童子をつとめたところから、その名が起ったものであります。
 二人は、ここの家に拾われて、掃きそうじ[#「そうじ」に傍点]や、庭の草取りや、追廻しをつとめていました。天性、二人は音楽が好きで、楼の人の学ぶのを見まね、聞まねに、さまざまの音曲を覚えています。人定まった後に誰もいないような部屋を選んで、二人はこうして、笛を吹き、歌をうたうのが何よりの楽しみであります。
「ねえ、金伽羅《こんがら》さん、今度はすががき[#「すががき」に傍点]をおやりよ」
とすすめたのは、歌をうたっていた制多伽《せいたか》であります。
「制多伽さん、このお隣には人がいるのよ」
 金伽羅童子は、尺八を膝に置いて返事をしました。
「え、人がいるの、お隣に?」
「ええ、病気なんでしょうよ、はじめのうちは大へん苦しがっていたんですけれど、そのうちに癒って寝てしまったようですから、それで、わたしは笛を吹き出しました。あんまり吹いたり、歌ったりして、せっかく寝た人を起すと悪いね」
「そう、でも、病気が癒って寝てしまったんなら、いいでしょう、すががき[#「すががき」に傍点]をもう一つおやりよ、わたしは歌わないで、だまって聞いているから」
「そうしましょうか」
 やがて、また、しめやかな尺八の音《ね》が起りました。
「ウーホフ、ホウエヤ……」
 こんどはすががき[#「すががき」に傍点]を始めました。淀《よど》みもなく三べん吹き返したすががき[#「すががき」に傍点]は、子供の歌口とは思われないほどに艶《つや》のあるものです。
「うまいね、金伽羅さん」
 制多伽は、その短笛の音色に心から感心して賞《ほ》めると、賞められた金伽羅は無邪気に嬉しがって、
「あんまり賞めないで頂戴、笛がいいんだよ、笛のせいで、よく吹けるんだね」
「金伽羅さん、こんどはおかざき[#「おかざき」に傍点]をおやりよ、ね、おかざき[#「おかざき」に傍点]をやって下さいな」
「やりましょうかね。では、おかざき[#「おかざき」に傍点]をやるから制多伽さん、お前、おうたいなさいな」
「あ、歌いましょう」
 隣室の人を驚かすことを怖れて、歌わないと言った誓いを忘れて、二人はまた興に入《い》ってしまいました。
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岡崎女郎衆
岡崎女郎衆
岡崎女郎衆はよい女郎衆
岡崎女郎衆はよい女郎衆
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 二人を知っている者は、それでよかろうけれども、二人を知らない者にとっては、壁を隔ててするその会話は、一種異様なものに聞えます。まことの金伽羅童子、制多伽童子がこの場へ天降《あまくだ》りして、戯れ遊んでいるのではないかとさえ思われるほどに、世間ばなれがしています。
 思いがけなくその幸福を受けたのは机竜之助でありました。次の間で天童の戯れ遊ぶことによって、この世からなる地獄の責めを免れました。「恋慕」を聞き、すががき[#「すががき」に傍点]を聞き、「岡崎女郎衆」を聞いているうちに、いつかは知らず恍然《うっとり》として、夢とうつつの境に抱き込まれました。いいあんばいに、ほとんど一日を寝通して、その日の黄昏《たそがれ》にこの家を出て行きました。駕籠《かご》に乗って帰る途中で、昨夜《ゆうべ》の金伽羅童子と制多伽童子のことが思い出され、あの尺八の音色が忘れられません。
 歌の声の可憐なのが、耳許についているようです。
 そこで、駕籠の中から、駕籠舁《かごかき》に向って注文しました、
「尺八を一本求めたいが、新しいのでもよし、古いのでもかまわない」
 やがて、その望みが叶うて、とある道具屋で、駕籠舁が一本の煤色《すすいろ》した尺八を求めてくれました。
 駕籠の中で竜之助は、その
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