もないから、多分、二度目でありましょう。してみれば、いつのまにか、一度はこの家の、この女と会うたことがあったのに違いない。
 しかしながら、ほんの訪ねて来たというだけで、二人は別れ別れになってしまいました。大隅は自分の部屋へ来て、気分が悪いと言って寝てしまいました。竜之助は疲労がはなはだしいと言って、他のいずれかの部屋で寝てしまいました。
 その間には、芸妓、幇間《ほうかん》を揚げて盛んに騒いでいる客もあります。一つの間に、たった一人で、しきりに義太夫を語っている者もあります。ひそひそと内密話《ないしょばなし》をしている者もあります。急がしそうに手紙を書いている人もありました。
 竜之助の寝ているところへ、廊下を通った番新が、そっとあけて、屏風の中を覗《のぞ》いて、無事に寝ていることを確めて安心して行ってしまいました。不寝番《ねずのばん》が油を差しに来た時も、ちょっと驚かされたけれども、やっぱり無事に眠っているものだから、安心して行ってしまいました。
 寝返りを打った途端に、右の手の傷がヒリリと痛んだために夢が破れた竜之助は、こんしんからの深い息をついて、痛む傷を押えようともせずに、見えない眼を見開きました。さいぜん注《つ》ぎ足して行った行燈《あんどん》のあかりが、明るくその網膜にうつッて来ました。夜が明けても眼が見えないし、昼になっても眼が見えない。寝ても見えないし、起きても見えない。横になっても、縦になっても、見えない眼は、やっぱり見えない。
 そもそも今夜、こうしてここへ、女の名を覚えていてやって来たのも、裏を返すというような遊蕩気分に駆られて、やって来たわけではあるまい。すべてが闇黒《あんこく》であって、ただ人を斬ってみる瞬間だけに全身の血が逆流する。その時だけがこの男の人生の火花なのだから、恋とやら、情とやらいうものは、もう無いものになっているはずです。
 美しい女もないし、醜い女もない。恋せられたって、愛せられたって、それがどれだけも骨身にこたえるものでもあるまい。金で買われる果敢《はか》ない一夜の情に堪能《たんのう》して、それで慰められて行くならば、何のたあいもない!
 この男にとって最も悲惨なのは、夜中に夢が破れることです。その夜中に夢が破れた時、お銀様がいれば辛《かろ》うじて、その裂け目をお銀様が繕《つくろ》うてくれました。宇治山田の米友が一緒にいた時は、その率直な一種の真実味が彼を慰めてくれました。それでも堪えきれない時に、一刀を帯びて人を斬りに出かける。
 夜半に夢が破れた時には、その破れ目の傷口から、あらゆる過去が流れ出すのです。
 与八に抱かれて行ったその子供が、雲に乗って天上へ舞いのぼると、その雲が火になって燃え出すのは、堪え難い執念です。
 今までの過去という過去が残りなく、そこへ並べられる最後に、その中へ現われるのは、いつも我が子の郁太郎の面影《おもかげ》でありました。我が子の面影のみは払おうとして払うことができません。消そうとしても消すことができません。まさに親の因果が子に報うべき現世の地獄を、眼《ま》のあたりに見せらるることが苦しくないではない。幾度か、故郷へ帰って、その見えぬ眼に、わが子を抱いてのち死にたいと思い立ったけれども、今となっては、もうそんな心持はないらしい。
 四隣《あたり》、人定まった時に、過去のことと人とを思い出すことが彼にとっては、ひたひたと四方から鉄壁で押えつけられるように苦しい。枕許の水差を引寄せて、水をグッと一口呑んだ時に、つい隣の部屋で、思いがけなく短笛《たんてき》の音が起りました。
 一口飲んだ水さえが、火となって胸の中で燃えるかと思われる時に、短笛の音は、一味の涼風となって胸に透《とお》るのです。
 この真夜中に、隣の部屋で尺八を吹き出したものがあります。竜之助の持っている風流といえばおそらく、尺八がその唯一のものでありましょう。それは父の弾正が好んで吹いたものであります。それを学んだ竜之助は幼少の時から、それだけは心得ておりました。伊勢から東海道を下る時に、たしか浜松までは、その一管の尺八に余音《よいん》をこめて旅をして来たはずです。浜松へ来て、お絹に逢ってから尺八を捨てました。少しく光明を得ていた眼が、再び無明《むみょう》の闇路《やみじ》に帰ったのも、その時からでありました。
 父から尺八を教えられる時に、竜之助はよく、尺八のいわれを聞かされたことであります。臨済《りんざい》と普化禅師《ふけぜんじ》との挨拶の如きは、父が好んで人に語りもし、竜之助にも聞かせました。竜之助には、そのことがわかったような、わからぬような心持がしていました。父が、よくすべてを禅味に持って行くことを竜之助は、むしろ反感を懐《いだ》いていました。普化禅師の物語を聞かされた時も、冷淡に
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