「いいえ、嘘なんぞは申しません、あの花魁が御贔屓《ごひいき》の旦那にひかされて、矢の倉の親御さんのところへお帰りになったのは、つい近頃のことでございましたが、お礼参りだといって柳原の、杉の森の稲荷様へ御参詣になった帰りに、やられてしまいました」
「へえ、ずいぶん、怖ろしいことを聞くものですね、まあ、どうしてそんなことになったのでしょう」
「このごろは、江戸の市中へ辻斬ということが流行《はや》って、行当りバッタリに殺《や》られる人が何人あるか知れません。ほんの近いところですけれども、一人で夜歩きをなさったのが、あの方の落度《おちど》でございますね、その帰りにやられてしまったんでございます。それでも、人の噂には、あれは辻斬ではなかろうということでございます、辻斬ならば、スッパリと抜打ちかなにかにやるんでしょうけれど、あの花魁のは抉《えぐ》ってあるんだそうですから、何か遺恨《いこん》があって、つまり恋の恨みだろうと言って、専《もっぱ》らの評判でございますよ」
「いや、いや、そんな話は、もうよしましょう、今時、まだ恋の恨みで人を殺すような男があるのか知ら」
「そりゃ、ありますともさ、いつになっても、この道ばかりは別でございますからね」
 按摩がうっかりこんなことを言った時に、面《かお》がダラリと伸びて、口が耳まで裂けたようでしたから、この部屋にいる人が、みんなゾッとしました。
 そこへ、白い羽二重を首に巻いて、十徳《じっとく》を着た、坊主頭の、かなりの年配な、品のよい人が不意に姿を現わし、障子をあける音もなしに入って来たから、眼の見えない按摩のほかは、新造《しんぞ》も禿《かむろ》も一度に狼狽して、
「御前様《ごぜんさま》、ようこそ」
と言って手をつきました。無論、当の花魁の大隅も、按摩をやめさせて居ずまいを直したものです。
 ところが、どうでしょう、一度に狼狽して敬意を表した部屋中の人々が、
「おやおや」
と言って面を見合わせたが、その面は、いずれも土のようになっていました。
「たしかに御前様がおいでになりましたね」
 新造が言うと、
「ええ、たしかにおいでになりましてよ」
 禿《かむろ》が返事をしました。大隅もまた、
「まあ、どうしたのでしょう」
 呆《あき》れた上に、歯の根が合わなくなっているようです。取残されているのは按摩さんだけで、それは、きょとんとしてせっかくの話の腰も折られ、療治の手をやめさせられて、ほんとうに手持無沙汰で控えていました。
 眼の見えるもの三人は、たしかに入って来た、白羽二重を首に巻いて十徳を着た坊主頭を見たのです。だから、慇懃《いんぎん》に手をついて、めいめいの頭まで下げたのに、下げた頭を上げた時分にはその客はいないのです。入って来たのが、いかにも突然であったのに、消えてしまったのが、またあまりに突然です。前の話があって、ゾッとして寒がっているところへ、それですから、惣身《そうみ》に水をかけられたような思いです。
 前代の大隅に熱くなって通っていた浅草のある寺院の住職がありました。法体では吉原へ通えないから、大抵は医者のような姿をして通っていました。この寺は裕福な寺であって、この住職は大隅のためにはずいぶん金を使ったものです。大隅は表面|上手《じょうず》にもてなしたけれど、内々はずいぶん悪辣《あくらつ》な金の絞り方をなしたものと見えます。
「大隅さんは、あんなことをして罰が当らないでしょうか、坊主を欺《だま》すと七代|祟《たた》るということだから、後生《ごしょう》が怖ろしい」
と蔭口を言われたこともありました。しかし、いよいよ熱くなっていた坊さんは、それでもいっこう悔ゆる気色《けしき》がなく、ひきつづいて通っていました。
 今も、心安く、すうっと大隅の部屋へ素通りしたものと思っていると、その姿が見えないというわけです。
「御前様のお面《かお》が真蒼《まっさお》でした」
 禿が唇を顫《ふる》わして言いました。
「そう言えば、肩のところに血が滲《にじ》んでいたようでした」
 それっきり、ものを言う者がありません。
「大隅さん、大隅さん」
 やや暫くたって障子の外から呼ぶ声で、一同が息を吹き返したようなものです。
「大隅さん、あなたをお名ざしのお客様をお通し申しました、御初会《ごしょかい》かと聞きますと、そうではないとおっしゃいます、お馴染《なじみ》かとおたずね申しても、そうではないとおっしゃいます、お一人で、ずっとお通りになりましたから、常のお客様と存じましたところが、お目が御不自由のようでございます、まあ、とにかく、お迎えにおいで下さいまし」
 廊下に立って誰とも知らず女の声で、こう言う者があったから、大隅は立ち上りました。
 大隅を名ざしで来たのは竜之助であります。初会ということでもなし、馴染ということで
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