尺八の歌口をしめしました。そこで、昨夜の「恋慕」が吹いてみたくなりました。金伽羅童子が吹いためりかり[#「めりかり」に傍点]を、真似るともなく真似て吹いていると、自分ながらいい心持に吹けてたまりません。
三返しまで「恋慕」を吹いて、それから獅子踊の前歌にかかりました。それを吹きはじめると、いよいよゆうべ聞いた金伽羅童子の冴《さ》えた笛の音が、そのまま、この笛に乗り移ったかと思われるほどです。そうして、あの制多伽童子のそれに合せて、うたっている声まで、ありありと、そこにひびいて来るようです。
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身をやつす、賤《しず》が思いを、夢ほど様《さま》に知らせたや、えい、そりゃ、夢ほど様に知らせたや……
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自分の吹いている尺八と、金伽羅童子の尺八と、制多伽童子の歌とが全く一つであって、二つとも、三つとも思われません。
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浅ましや、賤が身は、ただ一夜で落ちて、名を流す、えい、そりゃ、一夜で落ちて名をながす……
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あまり面白いので、
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ヤリ、ヤリ、ヒヒ、ヤリエウホフ
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と吹いて行くと、
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それとても苦しうござらぬ、若いが二たびあるにこそ、えい、そりゃ、枯木で花が咲くにこそ……
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どうしてこんなに面白いのだかわからない。自分で吹いて、自分の音色に聞き惚れていると、金の鈴を振るような制多伽童子の音声が、常住不断に耳もとで鳴りひびいています。心なき駕籠屋も、心して駕籠を揺れないように舁《かつ》いで行くものらしい。
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鎌倉の御所のお庭で、十七小女郎がしゃくを取る、えい、そりゃ、十七小女郎がしゃくをとる……
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しゃくをとるはいいけれど、いったい、この駕籠はどこまでやるつもりだ。
十一
お角があの晩、おそく両国の小屋へ帰って来た時分に、まだ茂太郎が帰っていませんでしたから嚇《かっ》としました。
小屋の者どもを叱りつけて、迎えにやったけれども、そのお客はとうに帰ってしまったとのことです。お角が、むしゃくしゃに腹を立てたのは無理がありません。こうなっては、たしかにかどわか[#「かどわか」に傍点]されたと見るよりほかはない。大切《だいじ》の大切の一枚看板を外されては、明日からの人気にさわる。人気よりも、損得よりも、出し抜かれたことがお角としては口惜《くや》しい。ことに相手が女であるとのこと、しかるべき切髪の、まだ水々しい女であったということが癪にさわってたまらない。その女は若党らしい男をお伴《とも》にしていて、茂太郎を連れ出して、船で柳橋の方へ乗り出したということです。負けない気性のお角を、それと知ってしたことか、知らずにした悪戯《いたずら》か、こればかりは容赦ができないと、お角は歯噛みをして口惜しがりました。
朝になると、染井のお屋敷から参りましたという使の者が、
「へえ、御免下さいまし、染井のお屋敷から、こちらの太夫元へお言伝《ことづけ》がありました、というのはほかじゃございません、こちらの小屋に出ておいでなさる茂太郎さんというのが、どうしたものやら、昨晩、迷児《まよいご》になって、染井のお屋敷のお絹様をたよっておいでになったそうでございます、お絹様も、不憫《ふびん》に思召して、昨晩はあれへお泊め申して、よくよく事情をお聞き申してみまするていと、両国の女軽業《おんなかるわざ》の一座に出ておいでなさるということですから、こちらの太夫元に、もしお心当りがございましたら、早速お引取りにおいで下さるようにと、こういう使の趣で、早々とやって参りました」
それを聞いたお角が、夜具を刎《は》ねのけて、
「いずれ御挨拶を申し上げますから、帰って下さい」
使の者は、ニヤリと笑って帰りました。
なんというばかばかしいことだろう、すっかりあの女に鼻毛を読まれてしまった、どうしたらこの仇《かたき》が打てるだろうと歯ぎしりをしました。ほんとうにそうです。お角として、これから染井の屋敷へ出かけて、あの子を引取りに参りましたと言って、お絹の前へ手が突けるものか、突けないものか。さりとて引取りに行かなければ、向うは、茂太郎を人質に取って、これ見よがしのおもちゃにするにはきまっている。第一、あの呼び物がなくなっては、今日からの一座も打てないじゃないか。お絹という女は虫唾《むしず》の走るほどキザな奴だ、噛んで吐き出してやりたいほどイヤな奴だと、お角は腹が煮えくり返ってたまりません。プンプンして弟子たちに当り散らしているところへ、
「お早う、親方はおいでか」
と言って、やって来たのが七兵衛であります。
ここへ七兵衛が来合わ
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