の市中へ入ってしまいました。
江戸の市中へ入って、まもなく二人の姿は昌平橋の袂《たもと》へ現われました。いつぞや貧窮組が起った時に、貧民が群集して、お粥《かゆ》を煮て食べたところに、今日も人だかりがあります。その人だかりの真中に大きな万燈《まんどう》があって、その下で口上言いが拍子木を叩きながら頻《しき》りに口上を言っています。
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安房の国
清澄の茂太郎は
幼い時に
父母に死に別れ……
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口上言いが、甘いような、憐れっぽいような、一種異様な節で、歌ともつかず、口上ともつかぬことを言っていました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、それを聞きながら、ふと万燈の表を見ると筆太に、
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「清澄の茂太郎」
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と書いてある右の方へ持って行って、
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「両国橋女軽業大一座」
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とあったから、ちょっと妙な気持になっていると、七兵衛が、
「百、ありゃ、お前の女房がやってるらしいぜ」
「そうだなあ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]も、なんだか、ムズがゆいような面《かお》つきで万燈をながめていると七兵衛が、
「甚内様は、後廻しにして、両国へ行ってみようか」
「そうよなあ」
「久しぶりで会ってやりたかろう」
「そういうわけでもねえのだが、あいつがこうやって、俺の方に渡りをつけずに、花々しいことをやり出したとすると、ちっとばかり腑に落ちねえところがあるんだ」
「だって、札附きの無宿者のあとを追蒐《おっか》けて、いちいち相談をするというわけにもいかなかろうじゃねえか」
「そりゃそうだが、あいつの器量で、これだけのことをやり出したとすると、後立てがあるに違えねえ、あいつに相当の金を出してやろうという後立ては、まんざら色気のねえ奴とも思われねえんだ、そうだとすりゃ、どういう心持で、あいつがその御厚意を受けたか、その辺がちっと聞きものだ」
「こいつは、ちっとばかり嫉《や》ける」
がんりき[#「がんりき」に傍点]がムズがゆい面をしていると、七兵衛があざ笑いました。
九
その晩のことでありました。両国橋の女軽業もハネて、楽屋の真中に大柄などてら[#「どてら」に傍点]を引っかけて立膝をしながら、長い煙管《きせる》で煙草を輪に吹い
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