自身に召捕りに向うという例はなく、さりとて無敵の悪人であるから、ウカと手を下し、味方を損ずるのも愚であると召捕りの方法を思案しているうちに、甚内が瘧《おこり》を患《わずら》い出したということを聞き込んで、押入ってついにこれを捕縛することができた。それで牢の中へ入れて、病気が癒《なお》った後に改めてお伺いの上、浅草元鳥越橋際において死罪に行うことになった。ところが、生来の不死身であったところから容易に刀剣が身に立たない。よって甚内が日頃所持していた槍を取寄せて磔《はりつけ》にかけてしまった。――その後、引廻しの者の先へ抜身の槍を二本立てる。その一筋の槍は、高坂甚内を磔《はりつけ》にかけた槍であると言い伝えられている。こうして高坂甚内なる無類の兇賊は一生を終ったけれど、その兇賊が神に祀らるるに至った理由はほかにあるのです。
 右の高坂甚内は、寛永の中頃から正保年間までの間の人で、その時分の南の仕置場は、本材木町五丁目にあり、北の仕置場は、元鳥越橋の際《きわ》にあったということです。甚内が鳥越橋でお処刑《しおき》になる最後の時の言葉に、瘧《おこり》さえ患わなければ、召捕られるようなことはなかったのだ、我れ死すとも魂魄《こんぱく》をこの土《ど》に留め、永く瘧に悩む人を助けんと言いながら、槍に貫かれて死んだということで、それから甚内様に病気平癒を祈り出す者が多くなった。その願書には男女の別と年齢と、いつごろより患い出したかということと、何卒この病気癒させ給えという祈願とを認《したた》め、上書《うわがき》には高坂様、或いは甚内様と記して奉る。病気は瘧に限ったことはなく、ほかの病気でも瘧と書いて願いさえすれば治る。願が満ちて病気が癒った時は、鳥越橋から魚の干物と酒を河の中へ投げ込んでお礼参りをする。縁日は毎月の十二日で、例祭は八月十二日、甚内が処刑せられた日ということになっている。
 二人のいう、甚内様、永護様という変態な神様の縁起《えんぎ》は、大よそこういったようなもので、二人は例の伯耆の安綱を坊主持ちにして、高尾の山の飯綱の社から、浅草鳥越まで行く間に、その名刀の処分をきめようとするのであります。
 けれども、これは東海道の道筋などとは違って、何を言うにも十里内外の道中ですから、二人の足では横町を走るくらいのものだから、出し抜こうにも、出し抜くまいにも、あっけないもので、江戸
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