で諸国の遍歴を志し、その門出に参詣したのがこの高尾山の飯綱権現の社であった。その社の前で、名を甚内と改めて、生涯のある目的を祈願した。それから相州の平塚在に暫く足を留めて、そこで盗賊の首領となった。その後、箱根山へ隠れて強盗の張本となった。高坂甚内は、宮本武蔵に就いて剣道の奥儀を究《きわ》めた上に、強勇にして力量がある。ことに水練に達して久しく水底《みずそこ》に沈み、水の中を行くこと魚の如くであったと言われている。加うるに身体は不死身《ふじみ》であって、一切の刀剣も刃が立たないということでありました。
その頃、「日本三甚内」とうたわれた三人の甚内があった。三人ともに同名で、そうして同じく兇悪なる盗賊であった。右に言う高坂甚内をその随一とし、もう一人は、庄司甚内――である。これは吉原を初めて開いた人であるが、前身はやっぱり盗賊で、剣槍《けんそう》に一流を究め、忍術に妙を得て、その上、力量三十人に敵し、日に四十里を歩み、昼夜眠らずして倦《う》むことなく、それに奇妙なのは盗賊ながら日本を週国して、孝子孝女を探り、堂宮《どうみや》の廃《すた》れたのをおこして歩いたというところが変っている。それともう一人は、飛沢甚内――これも同じく剣術、柔術、早業に一流を極め、幅十間の荒沢《あらさわ》を飛び越えること鳥獣よりも身軽であったところから、自ら飛沢と名乗った。これが捉まった時に、大久保彦左衛門の命乞いによって死罪を許され、身持ちを改め、苗字を富沢とかえ、横目の御用を蒙《こうむ》り、古着屋商売をして無事に天命を終えた。その住宅附近が後に富沢町となった。
かくて高坂甚内は、箱根山に籠《こも》って悪事を働いていたが、詮議が厳しく、箱根山の住居もなり難く、そこを立退いて諸国を徘徊《はいかい》していたが、やがて再び江戸に舞い戻ると赤坂に住居を構え、例によって辻斬、強盗のほかには、表面は剣術を人に教え、内実は無頼の徒を集めて博奕《ばくえき》を業としていた。悪行いよいよ募って、そのころ牛込御門内に住居していた先手役《さきてやく》青山主膳(千五百石)の組与力同心《くみよりきどうしん》が召捕りに向ったところ、同心二人まで深傷《ふかで》を負い、与力も辛《から》き目に遭ってほうほうの体《てい》で逃げかえった。それを聞いて歯噛みをした主膳は、自ら召捕りに向わんとしたけれども、叛逆謀叛人でない限りは奉行
前へ
次へ
全111ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング