ているのは、一座の棟梁《とうりょう》のお角であります。
「わたしは、これから柳橋まで行って来るから、あの子が帰ったらどこへも出さないでおくれ、お迎えがあっても、なんとか言って断わっておくれ」
誰にともなく、こんなことを言いつけたが、それでもまだ落着いて煙草をのんでいて、立とうともしません。
傍に茂太郎がいないところを見ると、ここにあの子と言ったのは、その茂太郎のことでありましょう。茂太郎が今宵もしかるべき客筋から招かれたから、出してやったあとで、お角は、こうしてひとりで、物案じをしているらしい。
「どうも、今日のお客は変だよ、後から行ってみようとは思ったけれど、それもおかしいから、ああはしてやったものの、なんとなく気が揉《も》めるのはどうしたんだろう、行ってみようかしら。それも、あんまり腹を見られるようだし、そうかと言って、相手がどうも尋常《ただ》のお客ではないらしいから、ほうっておいてもしや間違いが……間違いといったところで、相手がやっぱり女のお客だから、取って食おうというわけでもなかろうけれど、なんだか、わたしゃ、今日に限って、あの子を人に取られてしまうような気がしてならない。柳橋の殿様へもお伺いしなければならないんだが、それよりもあの子の方が気にかかる。といって、あの子が帰ってからお伺いしたんじゃ、殿様に恐れ多いし……いやになっちまうね。稲ちゃん、稲ちゃん、そこにおいでなら、ちょっと来ておくれ」
「はい」
幕帳《まくば》りで仕切った楽屋の後ろから、かなり美人の部に属する女軽業の娘が面《かお》を出すと、
「あのね、茂太郎を呼んで下すったという今日のお客様は、どんな人だったか、お前知ってるでしょうね」
「あの、桟敷《さじき》においでなさる時に、ちらりとお見かけ申しましたが、切髪でいらっしゃるけれども、なかなか品のよい、美しいお方でございました」
「お前、御苦労だが、若い衆をつれて、ちょっと迎えに行って来てくれないか、わたしはこれから外へ出かけるんだが、あの子が帰っていないと心配になるんだから、お客様の御機嫌を損ねないようにお話をして、早く帰していただくようにね」
「畏《かしこ》まりました」
「近いところだけれど、このごろは物騒だから気をつけてね」
お角は、わざわざ茂太郎を迎えにやっておいても、まだ何か心配が残っているらしく、柳橋へ行こう行こうと言い言い、ま
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