は、大抵そのお客の面と身分柄とをわきまえているから、たまに新顔の客が来る時は、多少の用心をします。板間かせぎは、どうしてもその新顔の客の中から出るものであるから、その用心もまた無理ではないが、今日のこの早朝の客は、全く新顔であって、全く別な意味で番頭の目を引きました。
しかしながら、僅かの間を置いて朝湯に飛び込んで来た、吉原帰りらしい二人の御定連《ごじょうれん》の騒々しい梯子段の上り方で、急に二階番の老爺も興をさましてしまいました。
湯屋の二階は、一種の倶楽部《クラブ》でしたから、新聞の種になるほどの噂は、まずこのところでさまざまに評判されました。色里から朝帰りの若い者共は、まずこの湯屋へ立寄って、家の首尾の偵察《ていさつ》を試みて、それから帰宅する足場としている。こうしてこの定連の朝湯客のなかには、威勢よく飛び込んで、すぐにトントンと浴槽へ降りて行く者もある。湯はそっちのけにして話し込んでしまう者もある。甚だしいのは、前日の将棋の遺恨忘れ難く、朝湯もそっちのけにし、朝飯を顧みる遑《いとま》なく、ついに午飯《ひるめし》の時になって、山の神に怒鳴り込まれ、あわてて飛び出すものもある。そこで二人三人、知った面《かお》が見えると、昨晩の柳橋の辻斬の話であります。前の晩、柳原で女が殺されたことは、この辺は管轄違いか知らん。それとも、昨晩の柳橋の出来事が大きかったために、それに食われたものか。柳橋の上で侍が三人まで斬られていたということ、その場へ現われて狼藉者を追い散らしたのが長者町の道庵先生であったというようなことから、辻斬に次での道庵先生の評判が呼び物になりました。ところが、威勢よく、その時に二階へ上り込んで来たのが、今も噂の主の道庵先生その人でありましたから、集まっていたものが、やんやと喝采しないわけにはゆきません。
「いよう、長者町の先生」
彼等は、おのおの席を譲って、下へも置かぬもてなしであります。
「先生、昨晩はまたエライ働きをなすったそうで、いつもながら、先生のお手並には恐れ入ったものでげす。ただいまも、みんなその噂をしておりました、なんでも先生は、ああして猫を被《かぶ》っておいでなさるんだが、実は、中国のしかるべき家中の御浪人で、武芸十八般、何一つ心得ておいでなさらぬのはないという評判でございますよ。本業のお医者さんの方は、界隈《かいわい》きっての名人で
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