っていると、またも三人の度胆を抜いたことは、その死屍の中から鼾《いびき》の声が起ったことであります。これには駒井甚三郎も、宇津木兵馬も、上田寅吉も一方ならず驚かされないわけにはゆきません。いかなる大剛の人でも、斬り伏せられて鼾をかく人は無いはずです。また人を斬っておいて、鼾をかいて寝込んでしまう人もあるまじきものです。
さすがの三人も、これには驚き入って、ずかずかと近寄り検《しら》べて見ると、下になっている一つはまさしく斬られている人ですが、その斬られている人の腋《わき》の下に首を突込んでいる他の一人が、まさに大鼾をかいているのであります。何のことだか、さっぱりわけがわからないながら、下になっている屍骸を検分するには、ぜひとも、その上になっている鼾の主を取り退《の》けなければなりません。
「これこれ、お起きなさい」
兵馬は、その背中を叩いて、身体をゆすぶると、ようやくにして起き上ったその人は、一見して兵馬もそれと知る長者町の道庵先生でしたから、あいた口が塞がりません。
五
その翌朝、練塀小路《ねりべいこうじ》の西の湯というのへ、見慣れない一人の客が、一番に入って来ました。
この客は差していた両刀を絡《から》げて、無造作に二階番頭に渡して、着物の帯を解きはじめます。見慣れない人ではあるけれども、この辺は旗本だの、御家人だのというものの屋敷が多いから、こんなお客が早天に飛び込んで来たからとて、大して物珍らしいというわけではないが、両刀こそ差しているけれど、また身なりとてさほどに落ちたものとも見えないが、ただ異様なのは、この客が盲目《めくら》の人であることです。盲目であるにかかわらず、いつのまにやって来たか、番台では何とも挨拶のないうちに、早くも二階へ姿を現わして、二階番頭を驚かせたことであります。
それから、人手も借りずに衣類を脱ぎ捨てて、梯子を降りて浴槽へ行く挙動が、ちょっと盲人とは受取れないようです。入って来た瞬間は、いかにも病み上りのような弱そうな人に見えたが、裸体《はだか》になった筋骨は、さほど衰えたものではありません。
二階番頭の老爺は茶道具を整理して、炉の上に茶釜をかけながら、ちょっとばかり首をひねりました。朝湯にしても、夕湯にしても、湯屋のお客は、その縄張りと面触《かおぶ》れが大抵きまったものであります。湯屋の主人と番頭と
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