風流を無茶にするものではありませんでした。川開きの晩に根岸|鶯春亭《おうしゅんてい》あたりへ逃げて行くほどの風流は、持っていたはずであります。不幸にして、今宵は元の駒井能登守が、見慣れない絵図面を拡げて、スクーネルの、君沢型の、千代田型のと言っている時に聞えたのが生憎《あいにく》、常磐津《ときわず》でもなく、清元《きよもと》でもなく、況《いわ》んや二上《にあが》り新内《しんない》といったようなものでもなく、霜に冴《さ》ゆる白刃の響きであったことが、風流の間違いでした。
「ははあ、殺《や》られたな、相手は一人じゃないわい、どのみち、辻斬をして歩くほどの乱暴者だから、おたがいに倒れるまで未練な助けを呼ぶようなことがない、ましてやこの際、仲裁に出るものがあろうとも思われない、夜番や巡邏《じゅんら》が通りかかっても、見て見ぬふりして通り過ぎるだろう。こりゃ幾人いるか知れんが、この斬合いは長そうじゃ、出て見たらかなりの見物《みもの》であろうわい」
駒井甚三郎は、何か自分ももどかしそうに、寧《むし》ろその斬合いの音に興味を持って耳を傾けているが、寅吉は、さすがに面《かお》を真蒼《まっさお》にして拳を固めています……かくて暫くする時、この船宿の表の戸に突き当る音、続いてバッタリと人の倒れるような音がしました。
三
ちょうど、この晩のこの時刻に、長者町の道庵先生が茅町《かやちょう》の方面から、フラフラとして第六天の方へ向いて歩いて来ました。
いったい、この先生は、こんなところへ出て来なくってもいい先生であります。なるべくは、真剣の場所へは出したくないのですが、こういう先生に限って、出るなと言えば出てみたがり、出てもらいたい時には沈没したりして、世話を焼かせる先生であります。
いかに先生だとはいえ、身に金鉄の装《よそお》いがあるわけではなく、腕に武術の覚えがあるわけではなく、時は、この物騒な江戸の町の深夜を我物顔《わがものがお》に、たった一人で歩くということの、非常な冒険であることを知らないわけはありますまい。知ってそうしてその危険を冒《おか》すのは、つまり酒がさせる業《わざ》であって、先生自身の罪ではありますまい。ただしかし、一杯機嫌で、この真夜中にフラフラと歩き出して前後の危険をも忘れてしまい、ただ無性《むしょう》にいい心持になっているほどに、先生の
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