飲みッぷりは初心《うぶ》なものではないはずだから、何か特別に嬉しいことがあっての上でなければなりません。
先生が唯一の好敵手であった鰡八大尽《ぼらはちだいじん》は、あの勢いで洋行してしまったし、それがために、隣の鰡八御殿は急にひっそりして、道庵の貧乏屋敷に一陽来復の春が来たのはおめでたいが、単にそれだけの嬉しまぎれに、ほうつき[#「ほうつき」に傍点]歩くものとも思われません。
さりとて、また今時分になって柳橋あたりへ、飲み直しに行こうとするものとも思われない。第六天の神主の鏑木甲斐《かぶらぎかい》という人が、かなり飲《い》ける方で、道庵とも話が合うのだから、これから興に乗じて、その人を嗾《そそのか》そうという企らみのように解釈するのも、余りに穿《うが》ち過ぎているようです。
これは先生のために、極めて真面目に解釈して、先生が深夜、急病人からの迎えを受けて、切棒の駕籠《かご》にも乗らず、お供の国公をも召連れず、薬箱も取り敢《あ》えずに駈けつけて、下地《したじ》のあるところへ病家先の好意で注足《つぎた》しをし、その勢いに乗じて、長者町へ帰るべきものを、どう間違ったか柳橋方面へうろつき出したと見るのが親切で、そうして至当な観方でありましょう。
いつぞやも言う通り、平常はぐでんぐでんの骨無しみたような先生だが、ひとたび職務のことになると、打って変った忠実精励無類の先生のことだから、天下が乱れようとも、行手に危険が蟠《わだかま》ろうとも、深夜であろうとも、辻斬が流行《はや》ろうとも、ひとたび病家の迎えを受けた以上は、事を左右に托してそれを謝絶《ことわ》るような先生ではありません――武士が戦場へ臨む心で、こうしてほうつき[#「ほうつき」に傍点]歩くのであります。
好い心持で、独言《ひとりごと》を言いながら、第六天の前まで先生が来た時に、
「えーッ、危ないよ」
路次のところから、警告を与える声がありました。
「誰だい、危ねえと言ったのは誰だい、拙者は長者町の道庵だよ、十八文だよ」
「先生、危ねえ、いま柳橋で斬合いが始まってるんだ、そっちへおいでなすっちゃいけません」
「ナナ、ナンダ」
道庵は酔眼をみはって、路次口の暗いところを見込むと、縁台の下に隠れて、そこから先生に警告を与えたのは、やはり、先生の名前を知っている地廻りの若い者と思われます。
それを聞くとどうした
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