#ここで字下げ終わり]
と書いてありました。何のつもりで、こんな文句を書き出したのか知ら。その次を読んでみると、やっぱり同じように、
[#ここから2字下げ]
花は散りても
春は咲く
[#ここで字下げ終わり]
 次へ次へと読んで行っても、どこまで読んでも同じ文句です。
 その手紙がぼーっと白け渡った時分に、あちらを向いていた女が、こちらを向いて、
「あなた、お眼はいかがでございます」
 突然にこう言って、暗い燈籠の蔭からたずねました。
「相変らずいけないよ」
 女があまりなれなれしく言ったから、それで竜之助も砕けた返事をしました。
「まだいけませんのですか、困りましたね、早くお癒《なお》しなさらなくてはいけません」
「癒るものか」
 それは冷罵《れいば》の語気であります。
「癒らないことはございますまい」
「癒るものか」
 いよいよ冷淡にハネ返すと、女は何を思ったか、
「それでは仕方がございません、早くあの峠を越えてしまいましょう、あの峠を越えないと、どうも心配でなりません、こうしていても眠れませんもの」
「あの峠とは?」
 女の指差したところを振仰いで見ると、それは前にながめた小仏の峠であります。左右を見ると、路の両側には小流れが流れていて、人家のまばらな甲州街道の一駅に相違ない。例の駕籠がどこから出て来たか、その小仏峠の方を指して一散に飛んで行きます。これもいつのまにか旅仕度をしていた竜之助は、やはりその駕籠《かご》に引添うて道を急いで行くうちに、橋を渡ると追分になっていました。
 駕籠は追分を左へ一散に急ぐのに、竜之助だけが右へそれてしまいました。右へそれては駕籠を見失ってしまうにきまっているけれども、行手に見える小仏の峠へ出るには、どうしても右へ行かなければならないと思われてなりません。左へ行くのは嘘だと思われてなりません。右へたった一人で急いで行くと、最初のうちは、左の道に、畑や、林や、流れを隔てて駕籠の飛んで行くのがよく見えました。急ぐほどに双方の距離がようやく隔たって、とうとう見えなくなりました。駕籠が見えなくなった時分に、峠も見えなくなりました。
 ははあ、小仏へ出るには、あちらの道を通るのがよかったのだな、と気がついたけれども、もう引返す道さえわかりません。四方《あたり》はいっぱいに雲と霧がとりまいて、自分は今、かなりの深山幽谷にさまよっているという
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