、浅川宿の小名路《こなじ》でございます」
「それならば、行燈に書いてあるこなや[#「こなや」に傍点]が間違いないのだろう」
「いいえ、こなや[#「こなや」に傍点]ではございません、小名路の花屋でございます。いったい、どちらからおいでになりました」
「江戸の駒込から来た」
「駒込はどちら様で」
「以前、当家の養女であったという、お若という人を連れて来た」
「まあ、お若さんがおいでなすったそうですよ」
家の中が、さざめき渡りました。そこで、はじめて中から戸がガラリとあくと、立っている女は透きとおるほど鮮《あざや》かな着物を着ています。
「よく、おいでになりました、さきから、こうして、明りだけは、かんかんと点《つ》けてお待ち申しておりました、あまり遅いものですから、戸だけは締めておきましたが、まだみんな起きているのでございます、さあ、お通り下さいませ」
案内をしてくれたその女は、また見覚えのある女であります。振返って見ると、そこに置き据えられた駕籠は、もうありません。
案内された座敷は、昨夜と違って明るい座敷でありました。朱塗りの雪洞《ぼんぼり》が、いくつも点いて、勾欄《こうらん》つきの縁側まで見えているが、その広い座敷に誰一人もおりません。家内の者はまだ起きていると言ったにかかわらず、入って見れば、ひっそりとして人の気配は更にありません。
ここへ案内をしてくれた女の人は、燈籠《とうろう》の下へ、ぴたりと坐ると、あちらを向いて頻《しき》りに物を書きはじめました。昨夕の女は、旅の客の疲れも知らず面《がお》に仕事をしていたが、今宵はまたお客をさしおいて、あちら向きで物を書いているのは、よほどさし迫った用向に違いない。いかに差迫った手紙とは言いながら、お客をそっちのけにして、あんまり無作法だと思いましたから、
「何を書くのか知らないが、手紙は後廻しにしておいたらどうだ」
苦々《にがにが》しく言い放ったけれども、あちらを向いていた女は向き直ろうともしません。女の書いている巻紙だけが、するすると竜之助の見ている方へ流れて来るのです。雨漏《あまも》りの水が板の間を伝って流れて来るように、紙が眼の前を流れて行くから、いったい、何をそれほど熱心に書いているのだろうと、のぞいて見ると、
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花は散りても
春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
往きて帰らぬ
死出の旅
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