ろどろした呻きの声であります。
それを篤《とく》と聞き定めた弁信は、消えた提灯を片手に、飛鳥の如く走り出しました。不思議となにものにも躓《つまず》くことなく、声のしたところへ一足飛びに走って来て、
「もし、先生、そこにおいでになりましたか。女のお方も、そこにおいでなさいますね。なんにしても、お怪我が無くてよろしうございました。けれども、あの足音をお聞きなさい、あの人の声をお聞きなさい、大勢の人がまた尋ねに参ります、今度つれて行かれたら、もう助かりませぬ、早くお逃げなさい。先生、わたくしのことは御心配にはなりませぬよう、あなた様は早く、その女のお方を連れてお逃げ下さいまし、先生がお逃げにならなければ危のうございます、早くこの場をお逃げなさいまし。あの通り人の足音と声とが近寄って参りました、お聞きなさいまし」
十六
弁信から逃げろと言われたことが、竜之助にとって思い設けぬ暗示となりました。女もまた、そう言われて、一にも二にもこの人を頼る気になったらしい。
頼ってみるとその人は、意外にも盲目《めくら》の人でありました。強いと思った人は、人並より弱味を備えた人であったことを知った時に、女はその恐怖から解放された心持になりました。この人は怖るべき人ではなく、憐れむべき人である。
女の心が男に向う時、その男が己《おの》れを托するに足りるほどに強い男であることを知った時には、信頼となり、或いは恋愛に変ずることもあります。それと違って、男が弱くして、自分がそれを世話をしてやるという立場に立った時は、女はまたその女らしい自負心が芽を出して、男を愛慕する心も起るものであります。
この不思議な遭逢《そうほう》の二人の男女は、どちらが頼り、どちらが頼られるとも知らずに、その場をおちのびました。けれども、道案内はまさしく女のしたことで、竜之助は万事をその女の導くままに任せたのでしょう。かくて、板橋の宿の、とある旅籠屋《はたごや》にたどりついて、そこで一夜の泊りを求めることとなりました。
多少の疲労とそれから、このごろとしては久しぶりで人を斬った竜之助は、女がまだ起きているうちに、すやすやと夢に入ってしまいました。
いつしか、自分は、振りわけの荷物を揺りかたげて、東海道を上って行った時の旅の姿になっている。ところは鈴鹿峠の下あたりで、その前を一挺の早駕籠が
前へ
次へ
全111ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング