し。それにしても、あの発狂者《きちがい》はどうなされた、ほんとうにお気の毒なのはあの方でございますが、これも前世の宿業《しゅくごう》の致すところでございましょう、お諦《あきら》め下さいまし。怪我をしたくもないし、おさせ申したくもないものでございます。女の方は、どうなさいました、逃げておしまいなさいましたかな、それとも真先に斬られておしまいなさいましたかな。それにつけても女というものは、罪の深いものでございますな、女一人ゆえに、どのくらい多くの人に間違いが出来るか知れたものではございません。でございますからお釈迦様も、女は怖ろしいものじゃと仰せられました、また女は救われないものじゃと仰せられました」
 こう言って、ようやく起き上って来ました。転んでもただは起きないで、喋りながら起きて来ました。序《ついで》に、地に落ちて消えた提灯を手さぐりにして拾って起き上りました。
「おやおや、それにしても、あんまり静かでございますね、お怪我をなすった方もずいぶんおありなさるはずなのに、この近所には、どなたもおいでになりません、皆さん歩いてお帰りになったのですか、たった今、あれほどの騒ぎがありましたところにしては、あんまり静か過ぎますようでございます。まさか、夢ではございますまいね、夢であろうはずはございませぬ。それならば、もしや、あの、狐につままれたと申すものではございますまいか。おお、それそれ、わたくしにはお連れがありました、わたくしはそのことを忘れておりました、お連れの先生は、どうなさいましたでしょう、あの先生のことだから、お怪我をなさるようなことはございますまいが、わたくしのことを御心配になっておいでになるかも知れません、大きな声でお呼び申してみましょうかしら。それともまた、ここで大きな声を出して悪いようなことはございませんか知ら」
 弁信は塵《ちり》打払いながら例によって、暫く小首を傾《かし》げていると、その鋭敏な耳に女の声が聞える。
「どうぞここをおはなし下さいまし、人違いで失礼を致しました……苦しうございます」
 それを聞くと、弁信は声のした方へ頭をクルリと振向けました。
「どうぞおはなし下さいまし、わたしは苦しうございます……」
 女は何者にか捉われの手を逃れようとして苦しみ呻《うめ》いている。半ば蛇に呑まれて、半身だけが地上にのたうち廻って苦しむような、熱苦しい、ど
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