。
その時、遠音《とおね》に聞えたのは鶏の鳴く音です。その鶏は宵鳴きをしたものやら、時を告げたものやら、いっこう要領を得ない鳴き音でありました。
続いてビョウビョウと犬の吠えるのが、まだ宵の口であるか、ただしは深夜の物音に驚かされたのか、それもハッキリとわかりません。
曾《かつ》て、十津川の奥から竜神村へ逃げ込んだ時に、頻《しき》りに犬が吠えました。竜神八処の犬が、悉《ことごと》く天に向って吠えるのを聞いた時には、さすがにものすごいと思いました。いま吠えている犬は、まさしくその時の犬であります。机竜之助は、再び紀伊の国の竜神村の人となったのであろう。
空をながめることができたなら、その天には清姫の帯が流れていたかも知れない。天に清姫の帯が流れる時、地にそれをながめた人に祟《たた》りがある、ということを後にお豊の口から聞きました。
恍惚《こうこつ》として立っている竜之助の周囲は、どうしても紀伊の国、竜神村の山の奥であります。
金蔵は斬って落したけれども、その相手のお豊はどこにいる。
「もし、あなた、罪のない人を殺してはいけません、わたしを殺して下さいまし、わたしが悪いのですから、わたしだけを殺して、ほかの人を助けて下さいまし、わたしはお前さんに殺されれば本望でございます」
そこへ縋《すが》りついたのはお豊ではありません、名も知らぬ女です。声にも聞覚えのない女であります。
女もまた、縋りついて、その人が動かない人でありましたから驚きました。
「あ、違いました」
離れようとしたが離れられません。動かない人の手が、早くも蛇のようにからみついておりました。
「あなた様は、どなたでございます、あの人はどちらへ参りました、どうぞ、お放し下さいまし、わたくしは、あの人に殺されなければならない女でございます、どうぞ、お放し下さい」
もがいたけれども、離れることはできません。
あちらの原っぱの方角で弁信法師が、お喋りをはじめたのはこの時分でありました。
「大変なことになってしまいました、一時《いっとき》、わたくしも気が遠くなってしまいました。おや、提灯の火も消えていますね。それでも、御安心下さいまし、わたくしの身体は無事でございます、倒れた拍子に頭を打ったものですから、ほんの一時、気が遠くなっただけのことでございます、もう、なんともございませんから御安心下さいま
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