脇差の柄《つか》を握って、邪慳《じゃけん》にそれをひったくると、高く振り上げて、水を掻くように無雑作に振り下ろすと、左の肩から垂直に胸の下まで斬り下げました。日高川の上で金蔵を斬って捨てたのが、やっぱりこの手でした。
「あっ!」
 狂人は二言ともなくそこへのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。
 四方《あたり》の原は、大風の吹き荒した後のように静かなものです。
 燃えさかっていた野火も消えてしまい、それを消そうと騒ぎ廻った人も在らず、寥々《りょうりょう》たる広野の淋しさを感じた時に、ふと気がつきました。
 斬ったのは金蔵ではないが、その女は、もしやお豊とは言わないか。
 辱《はずかし》められたる不貞の女の憎み、憎む女の肉を食《くら》い、骨を削りたくなるのは、彼の膏肓《こうこう》に入れる病根であるかも知れない。竜之助は、金蔵を斬ったこの刃で、その女を併《あわ》せて殺したくなりました。彼の右の手には、悪血《あくち》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》いほどに湧き上って来る。よし、その女が生きていようとも、すでに殺されていようとも、あくまでこの刃をその女の豊満した肉に突き立てて、その血を啜《すす》らなければ飽かぬ思いが、ぞくぞくと全身にこみ[#「こみ」に傍点]上げて来ました。
 竜之助が、男から奪い取ったその脇差を離さないのはこの故です。この広野原のいずれかを尋ねたならば、かならずその女の肉体がころがっているに相違ない。求めてその肉を食《くら》わなければ、渾身《こんしん》に漲《みなぎ》る悪血をどうすることもできない。
 それにしても、盲法師の弁信はどうしたろう。提灯が消えてしまったからとて、無事でいるならば、あのお喋り好きが何か文句を言い出さない限りはないのに、それが一言も言わないのは、かわいそうに、これも狂人の刃にかかって敢《あえ》なき最期《さいご》を遂げたのか。原をうずめていた無数の人だかりはどうしたものだ。狂人の勢いに怖れをなして一旦は逃げ散っても、また盛り返して取押えに来なければならないはずであるのに、四辺《あたり》に人の近づく気配はない。

 森閑として物淋しさが身に沁《し》みると、夢ではないかと思います。夢でなければ狐につままれたものでしょう。巣鴨の庚申塚あたりには悪い狐が出没する。この場の座興に同勢を狩り催して、二人の盲人をからかってみたものかも知れない
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