が美い女と見るくらいのものは、ほかの男が見たって美い女だ、だから、どうしたと言うんだ、おれが惚れるくらいの女に、ほかの男が惚れるのはあたりまえだ、それがどうしたと言うんだ、わからねえ奴等じゃねえか、それほど女房が大事なら、箱へ入れて蔵《しま》っておくがいいや、箱へ入れたって虫がつくということがあるじゃねえか、自分の女房に虫が附いたからって、土用干しもできねえじゃねえか、奴等あ、みんな嫉《そね》んでそういうことをするんだな、おれが美い女房を持っているものだから、それをけな[#「けな」に傍点]れがって、寄ってたかって、あんまりひでえことをしやがら、だから承知ができねえ、さあ、矢でも鉄砲でも持って来い、これからはおれが相手だ、おれの女房に指一本だって差させるものか、さあ来い」
自分も血まみれになって、血に染まった白刃を振りかざして、前後の辻褄《つじつま》の合わない啖呵《たんか》を切って、息せきながら弁信の背後《うしろ》まで迫って来ました。盲法師の提灯が危ない。提灯を斬られた切先でその頭が危ない。頭を斬られれば命が危ない。さすがの弁信も狼狽《ろうばい》して逃げ惑いました。
いま打ち下ろした刃《やいば》は、弁信の持っていた九曜巴の提灯をパッと斬り落したらしい。弁信はアッと言って倒れたから、それで第二の刃をのがれることができました。
あとは、真暗闇《まっくらやみ》の広っぱ[#「広っぱ」に傍点]を、その狂人が躍り上り、躍り上って狂い走ります。
その時に、狂人の刃の下に取縋《とりすが》ったものがあります。それは八歳になる女の子でありました。
「お父さん、危ない」
竜之助の耳には、ただその騒がしい物音を聞くのみです。
涯《かぎ》りも知れぬ広い原に、野火が燃え出して、右往左往に人が逃げ走る光景を想像するだけであります。
疾風に煽《あお》られた野火のような勢いで、触れるものをめらめらと舐《な》めて行く一個の狂人を想い浮べるのみであります。
その狂人が、こうも突発的に狂い出した原因は、ほぼわかりました。その狂人のいかなる種類の男に属するかということは、想像があるのみです。
その時に現われた狂人の面影《おもかげ》は、大和の国の三輪の藍玉屋《あいだまや》の倅《せがれ》の金蔵というもののそれにそっくりです。その倅は三輪大明神の社家《しゃけ》、植田丹後守の屋敷に預けられていたお豊
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