ほど、その通りでしょう。群集の逃げ惑う真中に、髪は大童《おおわらわ》になって、片肌を脱いだ男が一人、一尺八寸ほどの脇差を振りかざして、当るを幸いにきって廻っているところは、佐野次郎左衛門の荒れ出したような有様です。
 思うに、この男は、不義をした女の御亭主なのでしょう。あまりのことに逆上して、かっと気が狂うてこのていたらくと見えます。
 驚いて押えようとした者は、みんな斬られたようです。逃げ迷うて転んだ者も、浅かれ深かれ一太刀ずつは浴びせられているようです。これによって見ると、相応に手は利《き》いているのかも知れません。手の利いていないまでも、気狂いになるほどの逆上に刃物を持たせたのだから、無人の境を行くが如くに群集の中を荒れ狂う勢いは、手がつけられないものらしい。
 ただ九曜巴《くようともえ》の提灯だけが一つ、相変らず宙に浮いて、右へ揺れたり左へ揺れたりしているところを見れば、弁信だけはまだ斬られてはいない様子です。生きている間は、持って生れたお喋りが止みそうにも思われません。
「そうれごらんなさい、何か大変が出来ましたでしょう、いくら罪ある者にしましたところで、それを責めることが、あんまりキツいと、きっと咎《とが》があります、許して上げれば、その徳が、いつかはこっちへ向ってかえりますけれども、あんまりキツいことをなさると、恨みがみんなこちらへかかるものでございます。何か大変が出来ましたようですね、何でございます、エ、本当の御亭主さんが気狂いになりましたんですって? そうでございましょう、そういうことにならなければよいにと思いました。敵も味方も見さかいなく斬りつけておいでなさるんですって? それそれ、そういうことになってしまうのでございます、悲しいことですね、なんでも最初に許しておしまいになれば、そんなことにはならないのでございましたのに、許して上げないから、こんな悲しいことが出来ました」
 弁信は逃げ惑う人に押し返されながら提灯を振り立てて、こんなことを言いましたけれども、誰とて耳に入れるものはありません。またなるほどと感心して、それを聞いているような場合でもありません。
 兇刃を振りかざした気狂いは、もうその背後まで迫って怒号しています。
「おれの女房は美《い》い女だ、美い女だから、おれも好きで女房に貰ったんだ、おれが好きで貰った女房を誰がなんと言うんだ、おれ
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