、その辺にどなたかおいでになりますな、どなた様でございます」
 弁信はこの時、例によって聞き耳を立てました。その実、誰も言葉をかけた者もなければ、物音を立てた者もありません。弁信は杖を取り直して、提灯を持ち換えながら誰かに向って、こんなことを呼びかけて立ち止まり、
「ちょっとお断わりを申し上げておきます、わたくしはこれから本所まで行って参りたいものだと存じます。あれから暫く御無沙汰を致しました法恩寺の長屋へ参りまして、皆様に御挨拶を申し上げて来たいと存じまして、これから出かけるところでございます。長屋の衆は、さだめて、わたくしがあれから一度も便りを致しませんものでございますから、死んだものと思っていることでございましょう。かねて、わたくしは左様に申し残しておいたのでございます、こういう身の上でございますから、いつ、どうして、どんなところで間違いが起るか知れませんから、もし、二日も三日もわたくしが帰りませんでしたら、死んだものとお諦め下さいまし、決して、お忙しいところをお探し下さるような御心配をなすっていただいては困ります、と、こう申しておいたものでございますから、多分、長屋の衆も、弁信は死んだものと思っておいでなさるだろうと思います。それでも、こうして無事でいるのでございますから、一応は御挨拶に上らねばならぬとは思っておりましたけれど、こちら様で御懇意になったお方の不思議の御縁に引かされて、今日までこうして御厄介になっておりました、今日から以後も、ことによると、また長く御厄介になりに上るようになるかも知れません、法恩寺の方を引払って、こちら様へ御厄介になるようなことになりますれば、またお屋敷の皆々様にも改めて御挨拶を申し上げ、おわびも申し上げたいと存じております。それで今晩は、これから本所まで、こつこつと歩いて行きたいと存じます。幸い、こちら様が、やはり本所の弥勒寺長屋までおいでになる御用がおありなさるとこうおっしゃるものでございますから、お連れを願いましたのでございます。今晩は二人ともに、あちらへ泊りまして、帰りもなるべくは御一緒に願いたいと存じますが、多分そうは参りますまいかとのお話でございます。わたくしだけは明晩は必ずこちら様へ帰って参りまして、改めて御挨拶を申し上げるつもりでございますから、どうぞ御無礼をお許し下さいまし。ええ、この提灯でございますか。なるほ
前へ 次へ
全111ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング