す、もっとも浅草へ参りまするには、染井、伝中へ出ては損でございますから、その辺に、ずっと左へ切れる道がございましょうと存じます、それを尋ねておいであそばすがよろしうございます、多分、巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところあたりへ出る道があるだろうと存じますが、私共はごらんの通り眼が不自由なものでございますから……」
 なるほど、どうも様子が訝《おか》しいと思ったら、盲人であったか、道理こそさいぜんから口だけ親切で、身体に気を許さないのがわかった。そこで兵馬はお喋り坊主に会釈《えしゃく》をしながら、その傍を通り抜けると、それと離るること三間ばかりのところに、天蓋をかかげて月を見ている人があります。
 多分、月を観ているのだろうと兵馬は思いながら、その人の側を、ずっと摺り抜けて通りました。通り抜ける途端に、風を切って何物かが落ちて来ると覚えたから兵馬は、ひらりと身をかわしたけれども、口惜《くや》しいことに、かわしきれませんでした。右の肩を打たれようとしたのを、肩を開いたために、それが落ちて来て、刀の柄《つか》にのせていた手の甲を辷《すべ》って、右の小指を発止《はっし》と打砕きました。
「痛ッ!」
 兵馬は道の側《わき》へ飛び退いて身構えて見れば、月をながめて突立っていた天蓋の人が、手に持っていた尺八を振り上げて、通り抜ける兵馬を音もなく打ち込んで来たものです。
 稀代《きだい》の乱暴かなと思いました。よし、それが刃でなくて尺八であったとは言いながら、これ抜打ちの辻斬とあいえらばぬ仕方です。この上もなき無礼、この上もなき狼藉です。この場合でなかったら兵馬と雖《いえど》も、その分には済まされぬところを、兵馬は怺《こら》えました。砕かれた小指を握りながら、月に立っている天蓋の怪しの男の姿をながめながら、兵馬は取合わずに別れて行きました。
 指の痛みを堪忍《かんにん》して、宇津木兵馬はその場を立去りましたけれども、かの天蓋の怪しい男を、単純な乱暴人とのみ見るわけにはゆきません。況《いわ》んや狂人の振舞ではありません。
 相手の右へ向って摺り抜けるということが、作法の上から間違っていて、それがために彼の怒りを買ったものと見れば、過《あやま》ちはやはり自分にある。そこで兵馬は多少悔ゆるの心を起すと共に、心外なのはこの指の痛みです。
 かりそめに振り上げた尺八のために、ともかくもこ
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