いろのお稽古を立聞きを致して覚えさせていただいたものがございますから、そのうちで物になっているのを一つ、お相手を致してみたいものでございます」
誰もいないのに弁信は、こんなことを言いながら、暗澹《あんたん》たる土蔵の中の隅っこで、しきりに鑿《のみ》を揮《ふる》っておりました。
その翌日から、この土蔵の中で、思いがけない合奏の音が聞えました。
その合奏も、世の常のお行儀のよい合奏ではありません。机竜之助はあちらを向いて短笛《たんてき》を弄《もてあそ》ぶと、それと六枚折りの屏風一重を隔てたこちらで、お銀様が箏《そう》の琴を調べます。そうすると二階の下の暗澹たるところから、盲法師の弁信が三味線の音をさせるのです。三人とも、離れ離れにいて、それぞれ勝手の形を取り、勝手の曲を奏《かな》ではじめた時が、合奏のはじまる時であります。始まる時に何等の合図もなく、三曲のうちの何れかの一方が音締《ねじ》めをすると、期せずして他の二人が、それぞれの楽器を取り上げるのであります。
「千鳥の曲」を吹きはじめた時は、竜之助はなんとも言われない心持になりました。
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しおの山
さしでの磯に
すむ千鳥
君が御代をば
八千代とぞ鳴く
[#ここで字下げ終わり]
と歌った後に、後歌《あとうた》の「淡路島かよう千鳥の……」が続かなくなりました。それと同時にお銀様も、はたと琴の音をやめてしまいました。
下にいた盲法師の弁信もまた、絃《いと》を半ばに断絶しなければならなくなりました。そこで、せっかく合奏に興の乗りかけた「千鳥の曲」は曲の半ばで立消えになりました。
それでも三人のうち、誰ひとり、文句を言うものはありません。最初に曲をやめたのは竜之助でありましたけれど、聞いたところでは、三人申し合せて同時にやめたもののようであります。陰深《いんしん》な土蔵の中は、無人の境のように静まり返って、やや暫くの後に、
「何か傷心《しょうしん》のことがございましたね」
弁信法師が、やっとのことで、下から上へ向けて言葉をかけました。
二階からは、早速の返事がありません。
「傷心のこと」というのは、少しくしゃれ[#「しゃれ」に傍点]た言葉であります。傷心という言葉を、文字で現わさずに音で現わしたから、二階の二人も、ちょっと戸惑いをして、そのままに受取ることができなかったのかも知れません。
そ
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