寄るものはありません。相手が無くなると平家の文章を、ひとりで口吟《くちずさ》んで、曲の歌い廻しが思うようにゆかない時は、幾度も謡い直しています。そのくせ、琵琶修繕の手は少しも休むのではありません。ただ捗《はか》がゆかないだけで、どこをどう直しているのだか、この分では、一面の琵琶修繕に半年もかかるかと思われるほどのていたらくです。
「ヘヘエ、やるというほどでもございませんが、好きなものでございますからね。三味線も、ちょっとばかりならお相手を致しましょう。私に琵琶を教えてくれました検校《けんぎょう》が、何でも心得のある人でございましてね、その人から調子だけを教えていただきまして、あとは自分で工夫すると、どうやら当りがつくのでございますから、追々と、いろいろの音曲をやってみたいとこう思ってるんでございます。お寺にいては、そういろいろのものをやるわけには参りませんから、在家《ざいけ》におりますうちに、あれこれと手を出しておきたいと思っているんでございます。それでは芸人になるとおこごとが出るかも知れませんが、私は芸人でよろしうございます、とても名僧智識となって、衆生済度《しゅじょうさいど》を致すようなことは、私共の及ぶところではございませんから、芸人となって、いろいろの面白い音曲を皆様にお聞かせ申し、皆様をお喜ばせ申すことができれば、それで結構でございます。ですから平家琵琶は、あまり多くの人好きが致しませんもの故に、琵琶をやめていっそ三味線に移ろうかと、このごろはそう思っているところでございました。それ故、こうして毀《こわ》れた琵琶に手入れをしてみまして、もし調子が合わないようにでもなりますれば、ここで琵琶をやめて、三味線の方に宗旨替《しゅうしが》えを致しましょうと、そのつもりでこうしてやっているんでございます……合奏ですか、結構でございますね、琵琶はこの通りいけませんから、三味線でお相手を致したいものですが、三味線がございますか。あ、そうですか、先生が尺八で、あなた様がお箏《こと》で、わたくしが三味線で……それは至極よろしうございます、お相手を致しましょう。わたくしは数をあまり多く存じませんから、一つ二つ教えていただきましょう、三度教えていただけば、どうやら独り歩きができるだろうと存じます。それでも私は毎晩、琵琶を流して歩きまするうちに、諸方のお師匠さんの軒下へ立って、いろ
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